6月18日 富山市[富山市民俗民芸村(篁牛人記念美術館、売薬資料館、他)](70km)

今日は、富山県観光の初日である。

まず初めに県立博物館から、ということでネットで検索すると、「県立博物館」としてヒットするのは「富山県立山博物館」のみ。

「富山県立山博物館」か。

さすが、「立山」があるだけに、山専門の博物館があるのか。

すごいなぁと思っていたら、読み方が間違っていた。

富山県立山博物館

❌とやまけんりつ・やま・はくぶつかん

⭕️とやまけん・たてやま・はくぶつかん


が正解。

ずいぶんと紛らわしい名前をつけたものである。


そんなわけで、さらに検索を進めてみたところ、富山市内にあって敷地内に数ヶ所の博物館がまとまっているところを見つけたので、そこへ行ってみることに。


ということで、やって来ました「富山市民俗民芸村」


ここは、いくつかの古い民家を移築して、民俗資料館や考古資料館などが設置されているほか、有名な富山の売薬や地元の水墨画家にちなんだ施設もあり、全体が「富山市民俗民芸村」として一つの文化集落を形成している。

主な施設は7ヶ所あるが、そのうちの一部を見学することに。


まずは「民俗資料館」から。


ここは、江戸時代からの、築200年ほどの農家を移築した建物。

入り口には馬を飼育するスペースがある。


富山県は、農業における馬の普及が非常に盛んだったところ。

生活に欠かせない馬を、何よりも大切に飼育していたことがよくわかる。



また、この辺りでは「貸馬」が盛んに行われていたようだ。


岩手県の遠野でも、「曲り家」という造りで馬を飼育するスペースがあったが、囲炉裏を隔てて、人の居住空間と、馬の飼育場は分かれていた。

ここは正面玄関口で、馬がお出迎え。

なるほど、これならすぐに馬の貸し借りができるわけだ。

レンタカーならぬ、「レンタホース」か。


展示スペースとなっている一階には、衣食住に関する用具や祭礼用具などが展示されており、二階には農耕用具を中心とした、様々な生産用具が置かれている。

特徴的なのは、雪深い北陸の地で暮らすための道具の数々である。

また、盛んだった養蚕のための用具も展示されている。

これらの用具は現代から見ると素朴で単純なように思われるが、その発明は使う人の知恵の結晶であり、様々な工夫がほどこされている。

それらは手作業を助けるものであり、「その構造が外からよく見える」性格が、現代のパソコンなどとは違う、親しみやすいところである。

落ち着いた雰囲気で、ついつい長居をしてしまった。


さて、その裏側にあるのは、「篁牛人美術館」。 



富山出身の画家、篁牛人(たかむら ぎゅうじん)の作品が展示されている美術館だ。


卓越した技法で、独特の水墨画を生み出す、この富山県出身の画家については何も知らなかった。


繊細さと雄渾さが入り混じる筆使いに圧倒される。

基本は墨だけで描かれるが、時に彩色を用い、一人の画家が描いたとは思えない、多様なスタイルの作品を残している。


中国や日本の水墨画に、どことなく西洋絵画の世界観が加わった、味のある作品ばかり。

気に入った作品のポストカードがあったので購入。




続いては「土人形体験館」


ここは、どちらかというとお土産のムード。

土人形の色付け体験が出来るという事だったが、これは以前福島県で「三春駒」の色付け体験をしたので、ここではスルー。

サザエさんは、体験したらしい。 



3cmほどの可愛らしい土人形の鈴を一つ選んで、記念に購入する。



そして最後に、「富山売薬資料館」へ。



300年の歴史を誇る「置き薬」


「置き薬」の方法で全国を売り歩く「富山の薬売り」は有名である。

あらかじめ決めておいたエリアの各家庭を訪問し、薬を先に預けて使用してもらう。

次に訪れるのは半年から1年後。

その際に、使った分の薬代を支払ってもらうのだが、同時に未使用の薬を回収し、需要のある新しい薬を補充する。

この販売システムは「先用後利」(用を先にし、利を後にする)と呼ばれるが、「未使用の薬を回収」するというのが良心的で、これで有効期限切れの問題がなくなる。

富山の売薬は、江戸時代の初期、富山藩第2代藩主・前田正甫公の時代に始まる。

代表的な薬が「反魂丹」だ。

よく知られている話としては、1690年に江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えた。

ちょうどその場に居合わせた前田正甫公が、携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まったという。 

これを見ていた諸大名はこの薬効に驚き、自分たちの藩内でも販売してくれるよう頼んだ。

これをきっかけとして、富山では藩をあげて薬を製造、行商を後押しすることとなった。

こうして江戸中期以降、全国的に富山売薬の販路が広がっていく。


明治以降、従来の漢方薬が西洋薬に押されるようになり、また幾度と続く戦争によって売薬業が困難な時期もあったが、昭和30年代まで、富山の3軒に1軒は売薬関係で、ピーク時の行商人はおよそ1万人。

現在でも富山県では製薬業が盛んであり、1000人ぐらいが「家庭薬配置業」に従事しているという。

そういえば、Kが若かりし頃アルバイトをしていた、東京は青山にあるマンションにあった小さなデザイン事務所にも、「富山の置き薬」の方が営業にやっていらした。

初めて見る「置き薬BOX」に感動して、即座に契約を結んだと記憶している。

あの箱、事務所が引っ越しをする時、ちゃんと連絡していたのかどうか、今更ながら気になる。(K)



当時の「富山の薬売り」が人気があったのは、日本全国を渡り歩く売薬人がもたらす様々な情報という点と、加えて彼らが無料で配った「おまけ」の魅力も大きかった。

それらは紙風船や簡単な浮世絵版画などであり、そこには薬のブランド名が印刷され、今でいうマーケティングの効果も絶大だったのである。

お土産に紙風船をもらい、


記念に浮世絵版画の絵葉書セットを購入する。



最後に、館内に展示されていた掲示物の中に気になるものがあったので、帰ってからネットで調べなおしてみた。

それは、薬の行商人の「掟」ともいえるものの存在である。

行商人の心構え「示談」

売薬人は「示談」と呼ばれる業界内の規則を設け、不当な競争を避け、互いに協力する体制を作っていった。

売薬行商人は、行商先(圏)ごとに「組」を作り、行商を行っていたという。

その「組」の中で、お互いに守るべき取り決めが「示談」である。

主な内容としては以下のようなものが主流。

一.御公儀の法度を守ること
一.旅先地の慣習を尊重すること
一.決まった場所以外でみだりに行商しないこと
一.薬種は吟味して仕入れること
一.仲間の取り決めた値段より安売りしないこと
一.仲間同士の重置(かさねおき)はしないこと
一.仲間宿(定宿)以外に身勝手に宿を取らないこと
一.旅先で仲間が病気になったときは助け合うこと
一.旅宿で酒宴や女遊びはしないこと

こうした規約は、組や時代によっても異なるらしいが、信用の重視、旅先藩との摩擦回避、重配置 (すで、に他の行商人が入っている得意先に新たに売薬を配置すること )の禁止、相 互利益の尊重などが共通事項として定められ、その他、同業者に対する相互扶助 の精神の酒養や日常生活における道徳的規範といったものにまで及んでいたとされている。


江戸時代というのは、こうした決まり事を小さな単位で取り決め、その一つ一つを個々が誠実に守り、履行することで動いていた社会である。

徳川幕府による完全なる中央集権制ではなく、現在のように国のトップが決まり事を勝手に破棄してし、反故にしてしまったり、それを体制内の人間が誰も止めることも出来なくなるような社会ではなかったはず。少し前までは、そうだったはずだが……。

仁義を守り、礼節を重んじ、功徳を積むことが社会の美徳とされ、

組織の繁栄は、こうしたことの日々の積み重ねによって築き上げられてきた。


日本の津々浦々を旅していると、全国各地、それぞれの地域ごとに、東京中心の只々慌ただしい社会の中だけで生きている我々のような現代社会の申し子たちが見失ってしまっている、本来の社会のあるべき姿、あり方の縮図があるように感じる。

こうした先人の築いた知恵をヒントに、小さな単位での相互扶助の世界から、徐々に視野を広げてゆき、社会を形成し直す時がきているように思う。


次は、是非、薬メーカーの博物館にも足を運んでみよう‼︎

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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