1月23日 那覇市内散策[旧久米村界隈]


ここ数日は曇天だったが、今日はお散歩日和。

早速バスに乗り込み、先日急な雨で断念せざる得なかった那覇市内散策へと向かうことに。

那覇バスターミナルでバスを降りると、ちょうど「ゆいレール」が頭の上を通り過ぎたので、シャッターチャンスとばかりにパチリ。


左奥に見えるのが県立図書館のあるバスターミナルビルで、ゆいレール 「旭橋駅」に直結している。


ここからゆいレール沿いの幹線道路を300mほど北上し、ホテル東横インを目指す。



この前の通りは、いにしへの繁華街のメインストリートにあたる「久米大通り」

この道を海に向かって進んで行く。


目の前には、「無料紹介所」の看板が。

ここは那覇市の中心部なので観光案内所があるのは不思議ではないが、バスターミナルビルにも立派な案内所があり、雰囲気も いささか異なる。

どういうことかと、気になって調べてみたら、こちらは「夜の案内所」であった。

「客引き禁止」の注意書きもあるので、観光客の安全対策として設けられたということか。



この道を、さらに進むと、「程順則の生家跡」の看板がある。


先日訪れた県立博物館で、「中国から日本に儒教の教科書を伝えた」という彼に関する展示を見た。


このあたりは、現在、那覇市久米地区となっているが、琉球王国の時代は「久米村」と呼ばれ、小さな浮島になっていた。

ここには、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現在の中国福建人)の職能集団が移り住んで来たという。

彼らは、「久米三十六姓」と呼ばれ、中国や東南アジア諸国との貿易を行い、琉球王朝において重要な地位を占めていた。

三十六姓といっても三十六人いたわけではない。三十六は「とても多い事」の意で、中国から大勢の人が来たため、そう呼ばれたそうだ。

看板の主、程順則も、そのうちの一人である。

江戸時代初期、薩摩藩の琉球侵攻後、薩摩藩に従わず処刑された琉球王国の三司官謝名利山も、また然り。

中国にルーツを持つ渡来人ではあるが、独立国家「琉球王国」を命がけで守ろうとした、誇り高き「琉球人(うちなんちゅ)」なのである。


この久米三十六姓の末裔「久米村人(くにんだんちゅ)」は、現在でも沖縄の政治や経済において影響力を持ち続けており、歴代の知事では、稲嶺 恵一氏、仲井眞弘多氏が、その末裔である。


このような背景により、沖縄県は福建省との交流が活発であり、那覇市は省都の福州市と友好都市提携を結んでいる。

1992年には、提携10周年を記念して中国式庭園である「福州園」を建設。

さらに、2015年には、久米近隣の若狭緑地公園に「龍柱」が建設されている。


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ちょうど昼時だったので、沖縄そばのお店に入って昼食。



「限定50食」の沖縄そばを食べる。

小ぶりなお店だが、名店らしく、芸能人や著名人の色紙が壁いっぱいに貼られていた。


店を出て、しばらく行くと、再び、あの「案内所」の看板が。


この辺りは、琉球王国公認の遊郭があったといわれる「辻町」。

花街として栄えてきたところなので、ここは色街専門の案内所らしい。

他の地域では、あまり見ることのない、珍しい施設である。



もうすぐ港という辺りの右手に、小高い丘がある。


この丘全体が「旭ヶ丘公園」となっており、立派なガジュマルの木もある。



ここには、対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」があり、犠牲となった疎開児童と引率教師、船舶関係者の全氏名が刻まれている。



さらに、丘の上の坂道を回り込むように登っていくと、頂上手前辺りに「謝名親方顕彰碑」がひっそりと立っている。


「親方」というのは、もちろん相撲の親方のことではない。
琉球王朝における上級士族の官位の一つである。

謝名親方(謝名利山)は、先に述べたように、琉球王朝における対日外交強硬派の中心人物。

17世紀初頭の薩摩藩による琉球侵攻の折、「島津氏に忠誠を誓う」という起請文に署名することを、ただ一人拒否し、処刑された。

当時の琉球人の気骨を示す人物として、沖縄では現在でも尊敬を集めている。



この丘を少し下ると、「海鳴りの像」という慰霊碑がある。


第二次大戦中、対馬丸のような「疎開船」以外にも米軍の攻撃を受けた遭難船があり、ここには その犠牲者全ての氏名が刻まれている。

南洋諸島や本土で働いていて沖縄に戻る民間人、および沖縄から徴兵で他県に渡る若者などを載せた船も標的にされ、多くが犠牲となっている。



そんな歴史を知ってか知らずか、のほほんと仲良く日向ぼっこをしている2匹の猫がいる。



沖縄は、本当に猫が多い。


公園の丘の裏側にまわり、「対馬丸記念館」を見学する。


ここは、第二次大戦中、沖縄からの疎開児童・避難民を乗せた民間船「対馬丸」が、米軍潜水艦によって撃沈されたという 「対馬丸事件」について展示されている記念館である。



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第二次大戦で日本の敗色が濃くなると、沖縄の非戦闘員(児童、老人、婦人)を日本本土に疎開させることになり、1944年8月21日、長崎に向けて那覇港を出発した対馬丸には、834名の児童と827名の一般人・引率者が乗っていた。

このとき、別の民間船2隻と護衛艦2隻も同行していた。

米軍潜水艦ボーフィン号はこの船団を密かに追跡し、出発の翌日、8月22日にトカラ列島悪石島近海において、対馬丸を魚雷攻撃で沈没させた。

対馬丸は速度が遅く、船団についていくのがやっと。

この時攻撃を受けたのは対馬丸だけだったという。

これにより、児童約780名、その他の者を含む約1500名が犠牲となり、対馬丸のほとんど乗船者が亡くなったことになる。

日本軍は厳しい箝口令をしき、対馬丸事件の生存者や遺族が事件について口外するのを禁じていた。

そのため、彼らは心に深い傷を負いながら、それをじっと心の中にしまっていなければならなかった。

国際法によれば、敵国の民間船を攻撃することは許されてはいるが、事前に警告する、生存者を救助する、などの措置を講じなければならない。

実際には、真珠湾攻撃の直後、アメリカのルーズベルト大統領は多くの潜水艦を西太平洋全域に配備し、目標を軍艦に限定せず、警告なしに攻撃する、いわゆる「無制限潜水艦作戦」を命令している。

対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィン号は、現在、ハワイの真珠湾にある「ボーフィン潜水艦博物館公園」で一般公開されている。

博物館のウェブサイトでは、ボーフィン号が第二次大戦中、敵国の潜水艦44隻を撃沈したと紹介しているが、少なくともウェブサイト上では対馬丸についての記載はない。

対馬丸事件の生存者でアメリカ人と結婚した在米日本人女性を紹介した記事が「San Francisco Chronicle」に載っていた(2016/2/20)。

記事によれば、ボーフィン号の乗組員は戦後20年が経過して、はじめて対馬丸の疎開児童遭難の悲劇を知ったとのこと。

残念なことに、現在でも、この「対馬丸事件」は、アメリカでは、ほとんど知る人も、知ろうとする人もいない。


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記念館を出て、さらに海に向かって歩くと、ちょっとしたレジャー気分が楽しめる観光客の憩いの場「波の上ビーチ」が広がり、外国人旅行者が波打ち際で、素足になってはしゃいでいる。

近くの港には、大型のクルーズ船が停泊中。

その傍らには観光バスが数台停まっているので、これからバスに乗り込んで市内観光へ向かうのであろう。

近くの公園のテーブルには、5、6人の地元のご老人たちが集い、昼間からビールや泡盛で酒盛りをしている。

すべてが当たり前の、日常生活のひとコマなのだろう。

しばらくビーチのデッキの上に腰を下ろして、ぼんやりと景色を眺める。



ゆったりとした気分で、足を休めたあと、隣にある若狭海浜公園駐車場へと足を進める。


公園脇の港の入り口、若狭緑地には、前述した「龍柱」が一対聳え立っている。


この巨大な花崗岩の龍は、「那覇・福州友好都市交流シンボル像」。 

中国福建省福州市との友好都市締結30周年記念事業として、約3億円の公金を拠出して建立されたという。

2012年当時の那覇市長、故翁長雄志氏(前沖縄県知事)の肝いりで始められ、那覇市は、市内の業者を通じて福州市の業者に龍柱制作を依頼。

当初の予定では総工費2億6700万円。このうち8割を国の一括交付金で、残りの5300万円を市が負担するとしていた。

しかし、最終的な総工費は3億2200万となり、市の負担額は2億1900万円と当初の4倍に膨らみ、2015年に完成。県民からは厳しい非難の声が上がった、と現地のメディアは伝えている。



今後、この辺りはチャイナタウンが形成されるという計画もあるそうな。

元々、この辺りは中国からの渡来人「久米村人」の居住区であったので、「久米村の復興」という意味合いにおいては、何ら不思議ではない。

しかし、先の沖縄戦で廃墟と化したこの地に、新たに「中華街」として、ニュータウンを造成するとなると話は別。

新たな火種を生みそうな案件である。


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ここから県庁前まで、散策は続く。


途中、右手に中国風庭園「福州園」があるが、水曜日が定休日ということで、今日は閉館していた。



その向かい側には、久米村発祥の地があり、近くの横道の入り口には、「くにんだなかみち」の龍のオブジェが置かれていた。


那覇から名護方面へと向かう幹線道路に着くと、目の前の「沖縄タイムズ」のビルに、巨大な「沖縄県民投票」の告知ポスターが貼り付けられていた。

全県実施が決まり一安心、といったところか。


さらに進むと、県庁前の交差点に突き当たり、ここから、さらに足を延ばして国際通りを流して、いつも通り「牧志」のバス停から56番琉球バスに乗車して、我々のホームグラウンド(と勝手に呼ぶ)道の駅「豊崎」へと戻る。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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