11月1日 南魚沼市塩沢地区[鈴木牧之記念館]〜「北越雪譜」の町並み散策〜


  
依然黒みを帯びた雲は広がるものの、待ちに待った晴れ間が現れる。
南に車を走らせると、今までになく切り立った山容が周囲に迫っている。 
付近には、2000m近い名山・巻機山が聳えている。

今日は、「北越雪譜」の作者、鈴木牧之のゆかりの地・南魚沼市塩沢にある鈴木牧之記念館へと向かう。

「北越雪譜」とは、江戸時代後期に塩沢で大規模に縮織仲買商を営んでいた鈴木牧之が越後魚沼地方の雪国の生活を描いた「雪国百科全書」とも言うべき書物であり、刊行されてすぐにベストセラーになったという。


国道17号を右に曲がり記念館に近づくと、「牧之通り」と名付けられた古い街並みを再現した商店街が現れる。


雪が積もると黒地の建屋が映えるだろうと思いつつ、商店街の中ほどを入ったところにある鈴木牧之記念館へ。


ここ塩沢は、日本海沿岸の新潟・寺泊宿から群馬・高崎宿を結ぶ「三国街道」の宿場町にあたる。
「トンネルを越えると雪国だった」の、雪国に入ってから遠からぬところにある。

魚沼地方は「越後縮(ちぢみ)」の産地として古くから知られている。ここ塩沢も江戸時代、縮の原料を仕入れ、加工し移出する取引額が、全産業の3分の2を占めていた。

牧之は縮の商いを生業としつつ、代表作「北越雪譜」のほか、旅行記や自伝など、出版されなかったものも含めて、多くの書物を著している。「北越雪譜」の挿画の一部は彼の手によるもので、牧之は絵画に優れるほか、俳句も多く残している。

彼は商売のため、19歳で初めて江戸に出た。江戸の人たちと話をするうち、彼らが雪国の生活を余りに知らないことに驚いた、という。当時、江戸へは徒歩5〜7日程度の道のりだった。三国峠をひとつ越えただけで、自然環境や人々の生活は大きく異なっていたのだ。彼のこの驚きが、「北越雪譜」の執筆のきっかけとなった。

当時、地方の作家が江戸で本を出すという事は並大抵の事ではなく、出版までには実に30年もの歳月を要した。


山東京伝の息子、山東京水が編集、岩瀬京水が挿画をそれぞれ担当した。
「北越雪譜」は挿画を見るだけでも楽しい。

 

「熊が人を助けた話」など、奇譚と言って、作り話と片付けられないリアルさがある。
雪国に生まれ住んで、雪の美しさも恐ろしさも実感しなければ到底書けない書物だ。

ちなみに、明治に入り「北越雪譜」が活字として再版されたのは、明治の気象学者・岡田武松が注目したからだった。東京帝国大学物理学科を卒業し、中央気象台に勤めた岡田は、「北越雪譜」に描かれる自然現象や気象知識に驚き、「気象学を学ぶ者の必読書」と断言した。岩波文庫版「北越雪譜」は、彼の校訂となっている。

牧之は幼少から耳が悪く、高度の難聴であった。
耳に法螺貝を当てている絵が残されているが、そのように苦労して、執筆のための聞き取りをしていたのだろう。

相当生真面目な性格で、江戸時代の離婚の多さから見ても多くの再婚を経験したが、「昼は生業、夜は趣味」を徹底し、仕事を疎かにすることはなかったという。
滝沢馬琴は牧之を評して、「仕事本位で面白みに欠けるが、趣味に溺れず仕事に努めるところは大変立派である」と書いている。

彼の筆まめさを表す展示として、「張交屏風国処姓名帳」がある。商売を続けながら十返舎一九ら江戸の文化人と交友した彼は、彼自身と父親2代の交友関係を屏風にまとめている。江戸時代版「アドレスブック」だ。


なかなか上手な水墨画も展示されているが、これは病気で手が不自由になった時に描かれたものだそうだ。

記念館の2階は、主に越後縮に関する展示となっている。雄大な巻機山を背景に、雪原に越後縮を長々と晒している写真がある。「朝日が布にあたり雪がキラキラする様子を雪のない国の人に見せてやりたい」と、牧之は書いていたという。



最後に「秋山紀行」を買い求め、会館を後にする。


せっかくなので、辺りを散策して帰る。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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