午前中遅めに出発。ガソリンスタンドで、給油ついでにエアサスペション(空気バネのこと。走行中の衝撃を和らげることができる)の圧を点検。すると1.5kpaだったので、3.5kpaまで入れてもらう。
最近、段差のある場所から道路に出ようとすると、車体が微妙に横揺れし、気になり始めていたが、これで一安心。滑るように車道へと踊り出し、上山市郊外 蔵王の麓にある斎藤茂吉記念館まで車を走らせる。
緑の木々の間にある落ち着いた立派な建物。ここ金瓶地区は、茂吉の生家があったところだ。
茂吉といえば、教科書で習った「のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にいて たら垂乳根の母は 死にたまふなり」という歌と、息子の北杜夫がエッセイで「とにかく怖い父親だった」と書いていたことだけを覚えている。
まず、映像展示室で20分ほど、茂吉が生きた明治から昭和にかけての激動の時代背景と彼の生涯についての映像を見る。常設展示室では、医学者としての足跡と、歌人としての足跡、その交友関係などに関する展示を見る。
茂吉は正岡子規、その弟子の伊藤左千夫の影響を強く受け、「写実主義を重んじ、自然と自分が一体となったところで生まれる素直な感情に真実がある」とする実相観入という作風である。
「茂吉とその家族たち」と題する展示室では、妻・輝子(旅行作家)、長男・茂太(医師)、次男・宗吉(作家・北杜夫)から見た茂吉の生活が偲ばれる、数々のエピソードを知ることができる。
また、芥川龍之介が『僻見』というエッセイで、「僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になったのでもない。茂吉に開けてもらったのだ」と書いているように、彼の歌を高く評価していることを初めて知った。
この記念館は、近代的でセンスも良く展示やレイアウトも品良くまとまっている。しかし、どことなく無機質で感情や温もりを感じさせない。心が落ち着かない。
それは何故か。見学しながら、ずっと考えていた。それはどうやら、この記念館が「斎藤茂吉の功績、光の部分」に焦点を当てたものであるからなのではないか。
茂吉は、戦意高揚の戦争詩を盛んに書いていた歌人として、戦後はその戦争責任を追及されている。
確かに、展示物の中には戦争歌も含まれ、そこを敢えて避けているとはいえない。しかし、そのことに触れた解説も無ければ、記述も見当たらない。
それが短歌というものだ、といえばそれまでだが、芭蕉記念館に見られたような心の触れ合いというものが、ここにはない。
全体を通じ、彼の魂、心象風景が欠如しているように感じる。
彼自身の戦争責任の感じ方の有無について、同郷の藤沢周平は「茂吉には光太郎のような自責の念がまったくなかった」「歌と精神科の医師という職業に関しては非常に熱心であるけれども、他のことには本質的にあまり関心がなかったのではないか」と厳しい評価を与えている。
現在、日本は再び戦争への道が開かれつつある。この現状を知ったら、茂吉は一体どんな歌を詠むのであろうか。
帰り際、入り口近くのロビーに、記念撮影用のフォームがポツリと置かれているのに気づいたKY夫婦。早速交互に入れ替わりシャッターを切る。
誰が撮っても同じ画像になる。
静寂な空間に、ヒヒヒヒッという押し殺したような笑い🤣が、しばらくこだましていた。
記念館近くにはJR奥羽本線の無人駅「茂吉記念館前」があり、新幹線が静かに通過して行った。
続いて一行は山形市内に戻り、霞城公園へと向かう。
ここは山形城の本丸、二の丸が復元されたもので、馬上の最上義光の銅像がある。
近くの体育館では剣道の練習中らしく、力強い掛け声が響いてくる。
駐車場に車を停め、敷地内にある山形県立博物館に行くと、一週間ほど館内消毒のため閉館だった。
今話題の「縄文の女神」が拝めず残念ではあるが仕方ない。
(山形県立博物館ホームページより)
隣に瀟洒な建物が見えたので覗いてみると、そこは済生館(山形市郷土資料館)であった。
この建物は、明治時代、当時の山形県令・三島通庸がこの西洋風建築を莫大な資金を投じて建設したもので、三島はここを病院兼医師養成所として、オーストリアから医師を招聘し、山形市立病院として使用され、第二次大戦後に老朽化で取り壊しの危機にあったが、国の重要文化財に指定されたことでそれを免れ、現在の地に移築されたものである。
現在は「郷土資料館」となっているが、資料のほとんどは医学関係のもので、江戸期から明治にかけての医学教材や医療器具などであり、このあたりに興味のある人向けの内容だと思う。
山形市内には道の駅がないので、今日も天童の道の駅に泊まることに。帰り際、山形市内のレストランのサラダバーに大満足。温野菜がたっぷり摂れるのは有り難い。
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