昨晩、台風21号が強い勢力を保ったまま日本海に到達し、東北地方は暴風雨に見舞われた。キャンピングカーは激しく横揺れしたが、周囲にも停車中の車は多く、一晩なんとか持ち越して、朝には風雨は収まり晴れ間も見える青空となっていた。
今日は一日、天童市内散策の日とし、
まず初めに広重美術館へと向かう。
どうして、ここに広重美術館があるのか? それは入り口付近に建てられた看板に説明がある。
天童藩には、江戸時代後期に 藩の財政が行き詰まった天童藩主織田氏(あの信長の末裔)が、藩内外の富裕層から御用金を調達したり、借金をした際に、その返礼や返済の代わりとして、当時の人気作家安藤(歌川)広重に依頼して描いてもらった肉筆画(「天童広重」と呼ばれ、200点以上描かれたとされる)を贈ったという歴史がある。
この美術館では、その肉筆画の内の十数点を所属・展示。他にも広重の木版画も多く展示されている。
今日は、初代広重没後160年記念「広重が描く日本の風景」として、彼の風景画を中心に展示されていた。
「広重」は、世襲されている画家の名前であり、初代・二代目・三代目あたりが有名。最も著名なのが初代広重であり、今日の展示も彼の手による作品が中心である。
展示物のうち木版画は、有名な「東海道五十三次」をはじめとして、「名江戸百景」、「六十余州名所図会」、「富士三十六景」ほか計62点。
浮世絵自体は写真などで見慣れていたのだが、実際の木版画を見ると、その色彩の美しさにまず目を奪われる。特に竪大判と呼ばれるゆサイズのものは、ずっと見ていても飽きない。
「名所江戸百景」は、以前住んでいた隅田川や神田川周辺の風景が描かれていて親しみが湧く。
「六十余州名所図会」は日本全国の名所を描いているので、日本一周の最中の我々には、当時と現在の違いも含め、デフォルメされた風景から いろいろと想像がふくらんでくる。
ロビーでは、伝統を継承する現代の職人が広重の木版画(ビードロを吹く女)を制作する工程を映したVTR「匠達の技」が流れていた。
木版画は、広重のような「絵師」に加え、「彫師」と「摺師」の3者による共同作業である。職人たちの神経を使う緻密な作業の連続に、まったく溜息をつくばかりだった。
記念に、作品集を一冊購入する。
美術館を出ると、ちょうど昼時となったので、通りの向かいにある蕎麦屋で昼食となる。
かなりの人気店で、国産蕎麦粉100%の10割蕎麦を食べる。太くて噛みごたえのある典型的な「田舎蕎麦」。Yは2人前はある「板そば」を一人で食べて満足。Kは看板につられて「元祖 鳥中華」を注文。確かに鳥スープが絶妙。
午後は舞鶴山(天童公園)の麓にある「旧東村山郡役所資料館」に行く。
ここは、明治11年に東村山郡役所が置かれたところで、山形県に残る明治時代の洋風建築として最も古い時期の建物であり、県指定有形文化財となっている。
展示物は、明治維新前夜から明治・大正までの、天童藩・天童県・東村山郡の歴史を紹介するもの。つまり、現在の天童市の生まれる歴史的背景を知ることができる資料館といったところ。
5つある展示室のうち、「戊辰戦争と天童」と題して、天童藩家老・吉田大八について主に紹介している展示室が印象に残る。
徳川慶喜が大政を奉還したあと、新政府軍と幕府軍が武力衝突した戊辰戦争。新政府軍は奥羽侵攻に際して、奥羽鎮撫総督を先導するよう天童藩主に命じた。当時、藩主が病気で後継が幼少だったため、若くして中老(のちに家老)だった吉田が藩主の名代として新政府軍を先導することになる。
山形県内で新政府軍が当初攻撃目標にしたのは庄内藩だった。吉田は庄内藩との武力衝突を避けるために奔走したが功を奏せず、軍を先導して新庄に着陣。当時、豪商・本間家の財力を背景に近代的な武器を有していた庄内藩は、新政府軍を破り天童を焼き討ちにする。
当初、東北諸藩には態度の違いがあったが、結局「奥羽列藩同盟」が結成され、会津・庄内両藩を中心に新政府軍との激戦に突入する。この時点で、小藩だった天童藩は同盟に加わるしか道がなくなった。東北諸藩の重臣による会議において、「天童藩の加盟する条件は吉田の身柄引き渡し」と決定された。新政府軍の先導役を務めた吉田は、「鎮撫軍を唱導し奥羽を戦争に巻き込んだ大罪人」とされたのだ。
彼はその後、知人宅などに潜伏したが、天童藩の事情を察知して米沢藩に自首した。そして天童藩に引き渡され、1868年6月18日、37歳の若さで切腹して果てた。
天童市は将棋の駒の生産地として、全国シェアの90%を占めている。実は、天童で将棋の駒が生産されるようになったきっかけは、当時の天童藩が財政難であり、貧窮に喘ぐ下級武士の救済策の一つとして、吉田が他藩から職人を呼んで作らせるように奨励したのが始まりである。
天童市内には、将棋の駒をデザインしたオブジェや装飾が至る所にあり、果樹園や温泉など観光資源が豊富な天童においても、市のイメージとして将棋の駒は極めて重要なものとなっている。
広重美術館の入り口にも、この通り。
市民の憩いの場である舞鶴山(天童公園)には、吉田大八の銅像が立っている。
そして、この公園は天童市の有名イベント「人間将棋」(人間が駒ひとつになって対局)の会場にもなっている。
天童市民にとっての将棋の駒の生産は、藩命を受け若くして重任を負い、悲運の生涯を遂げた吉田への供養のひとつなのだ、と思えてならない。
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