昨晩から、時折叩きつけるような豪雨に見舞われ、やや睡眠不足気味。隣の鶴岡市や酒田市には大雨洪水警報も出ており、この道の駅のすぐ隣を流れる赤川の水位が気になるところ。ネットで見る限り、洪水注意報が出されているのは最上川流域だけだが、心配なので近くの町役場に聞きに行く。
県内の河川の水位はネットで確認でき、ポンプで水位を調節しているものの、今のところ心配はいらないとの話だった。
ひとまず安心ということで、雨の中、鶴岡市の観光に行く。
鶴岡市立図書館に併設された郷土資料館に行くと、「菅実秀展」をやっていたので見学する。
ここ鶴岡を本拠とした庄内藩は、戊辰戦争で幕府側についたが、幕府側の中心である会津藩の降伏後も最後まで戦い、しかも新政府によって取り潰しにも転封にも合わず、若干の減封のみで残されたという特異な歴史がある。
そこには庄内藩のために陰で尽力した西郷隆盛の存在があったとされており、その交渉役として活躍したのが当時庄内藩の重臣だった菅実秀である。彼は明治に入ってからも、残された旧藩士たちの生活を保障するため、開墾と養蚕・製糸業を興すことに尽力した。西郷を通しての庄内と薩摩との関わりは、その後西南戦争まで続くことになる。
大方の歴史をおさらいしたところで、次に向かったのは、鶴岡市の中心に位置する鶴ケ岡城址エリア。ここには、荘内神社と公園、藤沢周平記念館、旧藩校などの歴史的建造物がある。
そこで先ず、城址に隣接する元庄内藩藩校・致道館を見学することに。
藩校とは、江戸時代に各藩が設置した武士のための教育機関だが、致道館は1805年に創設され、徳川幕府滅亡とともに廃止された。現在は、当時の半分の規模で聖廟・講堂などが残されており、当時の教育カリキュラムの紹介や、教科書や印刷用の版木、関連文書などの展示がある。
学風には、注目すべき内容が。
次に訪れたのは神社境内にある藤沢周平記念館。
江戸時代を舞台にした彼の時代小説は、「蝉しぐれ」、「武士の一分」ほか映画化されたものが多く、映画のワンシーンを豊富に紹介しているのが特徴。
藤沢は子供の頃に家業の農業を手伝い、師範学校卒業後は地元で教師として将来を嘱望されたが、肺炎のため入院生活を送った。その後、東京で食品業界紙の記者として長く勤め、そのかたわら小説を発表し続け、1972年に『暗殺の年輪』で直木賞をとった。
鶴岡と庄内地方を愛した彼は、小説の舞台とするだけでなく、独特の食文化や風俗を作品に取り入れている。同じ庄内藩でも、商人の町・酒田と比べると、鶴岡は武家文化の色濃い武士の町である。最後まで幕府側として戦い続けた気骨のある風土は、彼の作品の登場人物にも強く影響を与えている。
藤沢周平記念館を出て、ふと神社の鳥居越しに真っ直ぐに延びた街並みを振り返る。するとそこには、赤みがかった柱が続く繁華街の痕跡が。
そうか、ここは神社の門前町なのか、とぼんやりと眺めていたら、そうじゃない。ここはお城だった場所。そこに神社が建てられたのだから城下町の街並みなのだ、と改めて思い直した。
この鳥居の内側に、神社のお社と藤沢周平記念館がある。
しかし、藤沢周平も、まさか自分の記念館が、藩主のお城の敷地内に神社と並んで建てられるとは思ってもみなかったことだろう。
さて今日は、お昼ご飯をたべるタイミングも逃したので時間的に余裕がある。されど道の駅に戻るには ちと早いということで、鶴岡市郊外にある「松ヶ岡開墾場」まで足を延ばす。
当時の木造建築(養蚕に用いられた蚕室)が5棟残されており、「松ヶ岡開墾記念館」「庄内農具館」「庄内映画村資料館」等に活用されている。
そこで、まず一番奥にある「庄内映画村資料館」を見学。
なぜこの場所に映画関係の資料館を作ったかというと、ここ庄内は過去、数多くの映画作品のロケ地となっているからで、最も有名なものは国内・海外の映画賞を受賞した「おくりびと」。庄内で撮影された映画の室内セットや衣装・小道具のほか、邦画・洋画の歴史を振り返るポスターなど1000点を超えるアイテムが展示されており、映画ファンでなくとも、昭和の懐かしさを感じる施設となっている。
日本映画史のドキュメンタリー番組や予告ムービーを丁寧に見ていたら随分と時間が過ぎてしまった。
続いてお目当ての「松ヶ岡開墾記念館」に向かったら、すでに閉館時間を十分程過ぎてしまっていたが、スタッフの方のお計らいで特別にを見せてもらう。
この資料館では、開墾当時の記録写真や管理文書、養蚕用具などにより、開墾から養蚕業発展までの歴史を辿ることができる。
明治に入り、菅実秀を筆頭とする旧庄内藩士たちは「刀を鍬に持ち替え」、ここ松ヶ岡の225ヘクタールという広大な土地を開墾し、養蚕を始めた。
「新撰組」のような組織が、庄内藩内にも組織されていたとは存じ上げずm(_ _)m。
明治期の養蚕・製糸業というと、富岡製糸場のある群馬が有名だが、実はここ松ヶ岡の養蚕は当時としては貴重な成功事例であり、黒田清隆の要請を受け、当時200名もの庄内藩士が技術指導者として北海道に赴いている。
JR札幌駅の隣に桑園駅があるが、これは当時の桑畑の名残である。Yは学生時代、すぐ近くに住んでいたのに全く知らなかった。
雨足は相変わらず強いが、影響はなさそうなので、昨日と同じ道の駅「庄内みかわ」に宿泊。山形県河川情報システムを見ると、この付近は「通常」となっているようだが、発達した前線の低気圧が山形付近を過ぎたばかりであり、今夜一杯は雨が続きそうな感じだ。(KY)
0コメント