早朝、日が昇り始めた頃、期待を胸に海辺へと向かう。
今日こそは、海の向こうに立山連峰を望むことが出来るか⁉︎
……やはり日頃の行いが悪いのか、そう簡単にはいかないようだ。
絶景を拝むには、まだまだ神通力が足りないのだろう。
今回はあきらめて、ポスターの立山連峰の姿を脳裏に刻み、道の駅「氷見」を後にする。
一行は、昨日走って来た道を折り返し、高岡市へと向かうことに。
途中、道の駅「雨晴」の前を再び通り過ぎる。
目指すは、高岡市伏木地区。
この地区には、かつて越中国の国府が置かれていたという。
やや高台に上がったところに、「高岡市万葉歴史館」がある。
駐車場には3台の観光バスが停車し、年配の方々を中心とする見学客がぞろぞろと降りてくる。
どうやら、ここは富山県観光の定番スポットであるらしい。
万葉の里、高岡
高岡は、京都・奈良に次ぐ『万葉の里』といわれている。
奈良末期から平安初期の約130年間に詠まれた和歌、4500首以上を集めた『万葉集』は、現存する日本最古の和歌集。
その間、様々な編者が関わり何度も増補され、最終的に大伴家持が万葉集全体をまとめたというのが一応の定説となっている。
その家持が、29歳で国守として赴任したのが、ここ越中国であった。
家持は越中赴任の5年間で、越中の豊かな自然と珍しい風俗に触れ、多くの歌を詠んでいる。
万葉集歌人・大伴旅人と、新元号「令和」
「高岡市万葉歴史館」の入り口には、新元号である「令和」の由来を示す展示がある。
万葉集第5巻「梅花の歌」の序文に、
初春の令月(よい月)、気は良く風は穏やかだ(風和=やはら=ぐ)
とある。
この中の二文字、「令和」が出典となったことは、すでに皆様ご承知の通り。
これは、この歴史館ゆかりの大伴家持の父であり、同じく万葉歌人であった大伴旅人によって詠まれたもの。
それがため、ここ家持ゆかりの万葉の里に建つ「高岡市万葉歴史館」には、新元号「令和(れいわ)」が発表時、全国から問い合わせや取材が殺到したそうだ。
ちなみに、この頃の大伴家は、朝廷内において物部氏と並ぶ権力を保持していたとされている。
大伴旅人は大隈半島の隼人鎮圧の為に、朝廷から征夷大将軍として派遣された武官でもあった。
この歴史館に、隼人の盾が置かれていたのも、何かの偶然であろうか。
家持と越中赴任時代
歴史館では、家持が国守として越中赴任時代に詠んだ和歌を中心に、当時の越中の人々の生活を偲ばせる若干の展示がなされている。
家持はこの5年間で、国守として任地を広く歩き回っている。
当時の一種の税制である「出挙(すいこ)」は、日本史の教科書に載っていたような記憶があるが、春先に農民に種もみを貸し付け、収穫期に利子分をつけて返還するというもの。
出挙は農民に対する稲作奨励の意味もあったらしく、国守自らが農村を視察し、民情を探ることも重要な任務の一つであった。
家持が任地で詠んだ数々の和歌は「越中万葉」と呼ばれており、これらの和歌は江戸時代に越中を治めていた加賀藩が、藩を挙げて調査研究を行なっている。
そのお陰で、現在の高岡市を中心とする町おこしの貴重な歴史資源となっているわけだ。
以下、家持がこの地で詠んだ和歌を、いくつか拾ってみる。
京では見ることのできない雄大に連なる高峰の残雪を詠んだ
立山に 降り置ける雪を 常夏に
見れども飽かず 神からならし
北国の長い冬を越し、春の訪れの嬉しさを詠んだ
玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の
声の恋しき 時は来にけり
遠く射水河より聞こえてくる漁民の唄声に耳を澄ます情景を詠んだ
朝床に 聞けばはるけし 射水河
朝漕ぎしつつ 唄ふ船人
京からはるばる家持の元へとやって来た妻を詠んだ
春の苑 紅にほふ 桃の花
下照道に 出で立つ娘女
5年を過ごした任地を離れる寂しさを詠んだ
しなざかる 越に五年 住み住みて
立ち別れまく 惜しき宵かも
家持と太平洋戦争
太平洋戦争中、戦意高揚のためラジオを通じて流された、『海ゆかば』。
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ
(海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって 大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない)
万葉集巻18「賀陸奥国出金詔書歌」という長歌の一節である。
当時、奥州地方から金が産出したという出来事を受け、聖武天皇が大仏建立のため金を朝廷に納めるよう詔書を出した。
家持は天皇が詔書を出した事実を讃えつつ、天皇家と深いつながりがある大伴家は、これからも末永く天皇家に忠誠を尽くすであろう、という意志を歌に詠みあげたものである。
上記の一節を歌詞として、信時潔が作曲した『海ゆかば』は、1937年10月の「国民精神総動員強調週間」で初めてラジオ放送されたという記録が残っている。
しかし、国民に広くこの歌を印象付けたのは、太平洋戦争中のラジオ放送による大本営発表である。
大本営が放送する戦果発表では、玉砕のニュースを伝える発表の際に、『海ゆかば』が冒頭曲として流されたからだ。
家持の長歌が1200年もあとになってこのような使われ方をしたことは、もちろん彼のあずかり知らぬことではある。
収蔵品について
ここでは、大伴家持自署のある太政官符や、越中国の名がでてくる荷札木簡(複製)、家持ゆかりの品々や、食事〈上流階級・庶民〉・古代の文房具など、当時の人々の暮らしや時代を反映する品々のレプリカなども展示されている。
他にも、『万葉集』や上代文学関連の古写本・版本類がある。
万葉集は写本の形で長きにわたって後世に伝えられてきたが、現存する最古の写本は平安時代に書写された『桂本万葉集』で、かの前田利家の妻・まつ(芳春院)が長年秘蔵していた。
加賀藩主だった前田家は、これ以外にも多くの万葉集の写本を収集し、万葉集以外にも多くの典籍を収集している。
このため、前田家お膝元の加賀国は、江戸時代には「天下の書府」と呼ばれていたそうである。
屋上から、家持も眺めたであろう、立山連峰を望む。
歴史館を出て、駐車場へと向かう帰り際に、こんな看板が。
近くにある二上山は、古代から神の山とされ、地元住民に親しまれており、この山上も絶景スポットであるというので、車を走らせてみることに。
二上山頂上近くをかすめて通る「二上山万葉ロード」と名付けられた細い山道を走る。
城山公園跡に簡単な休憩所があり、ここが展望スポットであるというので、記念に収める。
やはり、ここでも立山連峰は、ぼんやりと霞み、姿を現わしてはくれない。
山を下り、道の駅「高岡」まで向かう。
レストランが充実しているが、高速の出口に近いこともあり、トラックも多くやや混んでいて、SAのような雰囲気。
車中泊には、あまり適さない感じである。
それでは、ということで、さらに南下して南砺市方向へと向かうことに。
小高い丘を上って行くと、木彫りの七福神が。
ここは、南砺市にある道の駅「井波いなみ木彫りの里 創遊館」。
芸術的でユニークな道の駅ということで、ふらりと立ち寄ってみたが、運悪く休館日。
日中だというのに人の気配のない駐車場。
停まっていたのは、小型のパトカーのみ。
その隣に車を停めて、辺りを散策していると、数台の車がやって来た。
やはり休館日とは知らなかったらしい。
すぐに立ち去ってしまった。
今日は、この辺りで宿泊しようかと思っていたのだが、これではあまりにも寂し過ぎる。
やはり人里の近くに戻ろうということで、平野部の砺波市へと少し戻り、道の駅「庄川」に宿泊。
道をはさんで向かいにコンビニもあり、道路に面していても騒音を感じない。
近くには温泉もあり、心安らぐ、落ち着いた雰囲気の道の駅であった。
ゴミ箱あり、ネット環境良好と、快適な道の駅であった。
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