原城を後にした一行は、「有馬キリシタン遺産記念館」へ。
この記念館は、原城跡と併せて見学すべき施設である。
というのも、原城跡自体にはガイダンス施設が置かれていないからだ。
ここでは、島原・天草の乱の背景や経過を説明するパネルや文書、ジオラマ、それに原城跡の出土品などを、まとめて見ることができる。
他にも、キリシタン関連の展示物も広く扱われていたのだが、今回は島原・天草の乱に関してまとめてみたい。
《島原・天草の乱は、なぜ起こったのか》
島原・天草の乱には、〈 領主の圧政に立ち向かう農民一揆 〉、〈 キリシタン弾圧への反逆 〉といった二つの側面に加え、時は戦国時代が終焉を迎えたばかりであり、死を賭けて戦うことを厭わない武士の存在があったようだ。
展示物や資料をまとめてみると、以下のような要因が浮かび上がってくる。
1.帰農武士の存在
当時の島原や天草には、キリシタン大名だった有馬晴信や小西行長の家臣など、帰農しながら信仰を守り続けていたキリシタンが多く存在していた。
2.松倉重政の圧政
島原領主・松倉重政による大規模な島原城築城では、その巨額の費用負担と労働を領民に求め、7年半に渡り苦しめた。
3.残虐なキリシタン弾圧
徳川家光にキリシタン弾圧を迫られた松倉重政が、棄教しない領民の顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押したり、指を切り落としたり、雲仙地獄に投げ込むなど、残虐な拷問を行った。
4.松倉勝家の暴政
領主 松倉勝家は領民に対し、父・重政時代以上の重税を課し、未納の農民には蓑を背負わせ、火を放つという残虐な罰「みの踊り」等を科した。
5.天変地異による飢餓
3年続きの凶作に、日照りや台風、地震といった天変地異が重なったが、領主・松倉勝家は領民救済の有効な対策を講じず、執拗に農民への苛酷な政策を続けた。
6.キリシタンへの「立ち帰り」
徳川幕府のキリシタン禁教令により棄教していた領民たちの間で、「このような領主の暴政や天変地異により自分たちの生活が立ち行かなくなっているのは、自分たちが棄教したからではないか」という心理が働いており、多くの領民たちがキリシタンとして「立ち帰った」という。
こうして、ついに、島原・天草の領民は立ち上がることになる。
1637年10月24日、島原半島と天草の間に位置する湯島において、島原と天草双方の一揆の首謀者たちが顔を合わせ、蜂起について相談した「湯島の談合」が行われた。
その翌日 10月25日、「島原・天草の乱」が勃発したという。
一揆勢を束ねたのは、カリスマの美少年天草四郎。
というのは表向きのこと。
一揆勢の中心は、四郎の父をはじめとする帰農武士。
展示では、一揆勢の構成メンバーについて、以下のような分析がなされていた。
天草四郎は、先頭の表舞台には現れず、陣中旗の下で、主へ祈りを捧げていたという。
《島原・天草の乱、勃発》
1637年10月25日、立帰百姓、島原半島南部有馬村で、キリシタンを取り締まろうとした島原藩の代官を殺害し、武力蜂起。
27日、一揆勢、島原城を攻め、蜂起は島原藩領全域へ広がる。
同じ頃、天草でも立帰百姓が蜂起し、天草各地をおさえる。
大矢野島の大矢野にいた四郎らも、いったん長崎へ向かったが、天草を治める唐津藩兵が出動したことを知り断念。
天草下島の本戸で唐津藩兵と戦闘開始。
11月14日、一揆勢は天草下島の富岡城の城代の首を取るも、城は落とせず。
その後、島原・天草の一揆衆は合流。
天草四郎を総大将に仰ぎ、原城に立て籠もる。
幕府軍は当初、百姓一揆程度と軽視していた。
しかし、一揆勢はキリシタン信仰の下で結束し、幕府軍の攻撃によく耐え、大いに幕府軍を悩ませた。
一揆の鎮圧に向かった幕府軍の城攻めが始まったのが12月。
統制を欠いた幕府軍は、当初大損害をこうむる。
幕府は、九州諸藩を中心に出兵を命じ、幕府軍は総勢12万余りになったという。
しかし、「知恵伊豆」松平伊豆守信綱が総大将として着任すると、状況は一変。
幕府軍の総指揮をとった松平信綱は、むやみに戦闘を仕掛けることをやめ、捕縛した天草四郎の母や姉を利用したり、矢文を城内に打ち込んだりして、投降を呼びかけたりした。
また、平戸オランダ商館長に依頼し、オランダ船による砲撃を行ったが、これは一揆勢からも幕府内部からも、外国の内政干渉にあたるとして批判の声があがり、すぐに停止された。
彼は、それまでの力に頼る戦術を変更し、兵糧攻めにより城内を疲弊させたのだった。
一揆勢の結束は堅く、籠城は長期化したが、2月になると城内の食料も尽き果てた。
ポルトガルがらのキリスト教関係者からの援軍を心待ちにしていたが、ついに援軍は現れず。
オランダ船による砲撃を、松平信綱の思惑通り「ポルトガルの寝返り」と受け止めたとすれば、その精神的な痛手は、相当大きかったに違いない。
そして、2月28日。
ついに、幕府軍総勢12万の大軍による総攻撃が始まる。
二日間に及ぶを攻撃を受け、原城は陥落した。
その中で、一揆衆が幕府側の陣中に放った矢文が残されている。
「長門守(松倉勝家)の首を私たちの目の前に出してくれれば、城内の全員が死罪となっても構いません」と書かれたこの文書は、バチカン市国で発見され、その複製がここに展示されている。
一揆衆が松倉氏の圧政を告発し、自分たちの覚悟を記したものであり、重い文面である。
《一揆の鎮圧》
2日間にわたる総攻撃により、場内にいた一揆衆は女子供に至るまで、全員が惨殺され、天草四郎と首謀者たちの首は、長崎の出島で晒された。
一揆当時の島原領主・松倉勝家は死罪。天草領主・寺沢氏は、天草領を没収されている。
現在、この乱のあらましを示す文書については、日本国内においては焼失、或いは幕府側に破棄されたため、ほとんど残っていないという。
どこかで聞いた話のようでもあり。
時の為政者にとっては、相当に都合の悪いことが多々あったに違いない。
《島原・天草の乱、その後》
この乱は、幕府に大きな衝撃を与え、キリシタン禁制が厳重に整備されることになった。
潜伏キリシタンが立ち帰って蜂起したことを重く見て、全国の潜伏キリシタンの摘発に乗り出す。
こうして、キリシタンの取り締まりは一層強化され、「宗門人別改制度」が発布されることなる。
また、対外政策についても見直しを図ることになる。
1639年、宣教師を送り込んでくる可能性の高いポルトガル貿易を禁止。
九州を中心とする地域に遠見番所を設置し、沿岸警備体制を強化。
1941年、オランダ商館に対し、長崎出島への移転が命じ、監視を強化。
また、島原の乱については、〈 実質的には「領主の苛政に対する百姓一揆」であり、「キリシタン信仰によって団結をはかったもの」ではないか 〉とする見方も存在するようである。
1637年10月半ば頃、「加津佐寿庵」の署名による『キリシタンだけが世界の終末から救われる 』と記された、キリシタン信仰を促す回文が島原・天草に出回ったといい、
この回文には、さらに「小西行長の旧臣 益田好次の子、時貞(通称 天草四郎)が『でいうすの再臨』」と書かれていたらしい。
つまり、〈 天草四郎を「天人」としてキリシタンの結集が呼びかけられ、キリシタンの「立帰」(一度棄教した者が再び信仰に戻ること)を促したのではないか 〉というのである。
また、天草のある村では、一揆軍勢から、「キリシタンになるならば仲間に入れてやろう。しかしキリシタンにならないのなら皆殺しにする」と言われたとする報告もあるという。
ただし、これは島原・天草の乱平定後に熊本藩士が報告したものなので、真相は定かではない。
と、ここまでを振り返ると、記憶に残るのは、「為政者が最も恐れていたのは、キリスト教という宗教が人身に与えるパワーである」ということ。
不平等や抑圧に対し、命懸けで抗う。
そのことに国民全体が目覚め始めたとしたら、幕藩体制などあっけなく崩壊してしまうことだろう。
かくして、キリシタン弾圧は強化され、その一方で、日本はキリスト教を足掛かりとした植民地支配から免れることになるのである。
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