4月25、26日 南島原市 → 大村市 → 長崎市[長崎県歴史文化資料館](110km)


昨日は、半日休息を取り、午後から移動。

諫早市を経由して、大村市の道の駅「長崎街道鈴田峠」で宿泊する。


今日は、朝早くから長崎市内へと移動する。

長崎市には道の駅がない。

山がちで平地が少ないせいか、公営駐車場も狭く、市内見学する際にも駐車場で苦労するらしい。

唯一の頼みは、ネットで下調べしておいた「松山町駐車場」である。

ナビに駐車場名を入れて、目的地へと向かう。


長崎市街に入ると、市電が走っていて、車道もやや細い。


ナビが、目的地の「松山町駐車場」を示す。

ここは、長崎駅からしばらく北上したところにある、陸上競技場と市電の線路に挟まれたガード下。

車がうまく入るかどうか心配だったが、ちょうど橋脚の間のスペースが一台分として空いていたので、他の車と接触する心配もなく、思いのほか快適。


ホッとしたのも束の間。

すぐ後ろを市電がひっきりなしに行き交い、頭上からはJR長崎本線の走行音が鳴り響く。

おまけに、隣の競技場では、イベントの最中でアナウンスの女性の声が甲高い声がこだましてくる。

これほど賑やかな駐車場は初めてだ。

とはいっても深夜にイベントはないし、終電から始発までの5時間ほどの間は、当然騒音も収まる。

近くには公衆トイレとコンビニがあり、すぐ隣は市電の駅なので、市内観光の拠点としては絶好のロケーションなのである。


休憩を挟んで、さっそく市電で長崎駅まで向かう。

長崎の市電は5分間隔ぐらいの頻度で走っていて使い勝手が良い。

JR長崎駅で観光案内所に立ち寄ろうと駅舎を探したが、駅舎の表示が小さくてすぐに見つけることが出来なかった。



駅の観光案内所で長崎市内の資料をもらい、徒歩で20分ほどの「長崎歴史文化博物館」を目指す。


急勾配の坂道を登り、寺院が立ち並ぶ路地を歩いていると、威厳のあるひときわ立派な門が現れる。

立て看板を覗いてみると、ここは幕末、坂本龍馬が談判をしたという聖福寺という寺院であった。



さらに進むと、今度は「唐船を繋いだ石」と書かれた門柱の御屋敷も。

いかにも長崎といった風情で、一軒一軒に趣があり、見ていて飽きない。


路地が T字路でぶつかった辺りに、長い塀が見えてきたと思ったら、ここが博物館だった。



「長崎歴史文化博物館」は、通常の歴史博物館とは異なり、近代からの長崎の歴史に特化して展示する施設である。


長崎が日本の歴史に登場するのは、キリシタン大名・大村純忠が、1580年に長崎港周辺をイエズス会に寄進したことから始まる。



これは、1580年、大村純忠こと、ドン・バルトロメオが、長崎と茂木をイエズス会に譲渡する旨を、息子の喜前ドン・サンチョと連署でしたためた寄進状である。



当初、松浦氏が支配する平戸に入港していたポルトガル船が、現地の日本人と対立を起こし、新たな港を探していた。

ポルトガル船がもたらす富に目をつけた純忠は、自領の横瀬港を提供し、港は繁栄する。

現地の神父を通じてキリスト教を学んだ純忠は、その後キリスト教に入信。

内乱で横瀬港を焼かれたため、彼は小さな漁村だった長崎港周辺(及び茂木地区)をイエズス会に寄進する。


純忠は、イエズス会がポルトガルに大きな影響力を持つことを知っていた。

この時、日本に初めて「外国人による治外法権の土地」が生まれたことになる‼︎


純忠にとって幸運だったのは、彼の死が追放令発布の前月であったことだろう。


純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。

領民にもキリスト教の信仰を強いて、僧侶や神官を殺害。

改宗しない領民が殺害されたり、土地を追われるなどの事件が相次いだという。


イエズス会への土地の譲渡に加え、こうした純忠の所業は秀吉の逆鱗に触れ、

豊臣秀吉は、この後、1587年7月に「バテレン追放令」を発布。

翌年、長崎を直轄領とし、イエズス会城塞を破壊、鍋島直茂を代官とした。


この先、長崎のキリシタンにとって受難の時代が続くが、徳川幕府の鎖国政策により、長崎は大きな発展を遂げることになる。


長崎は、対オランダ・中国の貿易の窓口役を担ってゆくことになるのである。



江戸時代に海外からの窓口となったのは、長崎・対馬・薩摩・松前の4ヵ所。


中国(清朝)との貿易は、一つは上海や寧波などの港を経由して長崎まで。 

もう一つは、朝鮮を経由して対馬が窓口となった。 

これとは別に、琉球を経由し薩摩に入るルートもあったのだが、薩摩は相当量の密貿易を行なっていたと考えられている。




長崎ちに集まる船は、さまざまなルートでやってくる。

その中に、中国・ 浙江省や江蘇省からも小型船がやって来ていたとは知らなかった。



華やかな船の来航に、長崎市民は遠足気分で港に出掛け、船を眺めていたそうである。


長崎では、貿易で得られた利益の一部が町人に分配されていたという。

現在の日本政府とは真逆な対応に、脱帽。




そんな長崎に、幕末期の日本各地の諸藩は、それぞれ多くの留学生を長崎に派遣していた。 

当時、西洋の進んだ文明に直接触れることの出来る場は、唯一長崎だけであったのだ。



そこでは蘭学や漢学、医学、天文学などが学ばれただけでなく、その後の倒幕運動から明治維新を動かす人たちが長崎で出会い、影響を与えあったという。



最後に、太い海底ケーブルがぶら下げられた、「大北電信海底ケーブル経路図」と書かれた展示があった。

上海から長崎へ、もう一つのルートはウラジオストクから長崎へ、それぞれ海底ケーブルが敷設されたという経路図である。


「大北電信」とはデンマークの会社で、「グレート・ノーザン・テレグラフ社」のこと。

1871年、同社がこの経路で海底ケーブルを敷設。

それまで上海やウラジオストクはヨーロッパとすでに結ばれていたが、これではるばる海を越えて、日本が西洋諸国とケーブルで結ばれたことになる。


この海底ケーブルには逸話がある。

この敷設から先立つこと4年前の1867年、「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模なキリシタン弾圧事件があった。

信仰を表明した浦上の村人たちは、流罪に処されることになる。

この直後に徳川幕府は倒れる。

変わって誕生した明治政府は、徳川幕府のキリシタン弾圧政策を継続した。

そして、開国にともなう海外との不平等条約の改正を目的として、岩倉遣欧使節団が派遣される。 

各国を訪問する使節団は、現地で日本のキリシタン弾圧について強い避難を浴びることとなる。

ちょうどこの頃敷設された海底ケーブルにより、日本の情報がほぼリアルタイムで西洋諸国に伝わっていたわけだ。

日本のキリシタン弾圧政策が海外との交渉に不利だと考えた使節団は、日本に「キリシタン禁教令の廃止」を伝える電報を打つ。

こうして、浦上の村人たちの流罪は取りやめになったそうである。




この博物館には、「長崎奉行所」を再現したコーナーがある。

広い敷地を贅沢に使っており、時によっては「お白州の再現」もあるとのこと。

この博物館の目玉にしているようだった。


博物館に入った時は、閉館時間の2時間ほど前。

1時間もあれば充分だろうと考えていたが、あっという間に時間が過ぎてしまい、最後の長崎奉行所のコーナーは残り15分となってしまい、駆け足となってしまった。

展示も工夫されていて、なかなか見応えのある博物館であった。


帰り道、横断歩道を渡ろうとして、ふと地面に目をやると、こんな可愛らしい絵が。


この街では、歩行者がドライバーに「手のひら」で合図をするきまりなのだ。

手を挙げるだけではないようである。



駅近くの小径には、こんなネーミングのお店も。


「里芋浩太郎」

おすすめ一品は、「里芋の煮っころがし」で決まりだろう。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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