今日は、荒尾市にある「宮崎兄弟資料館」を見学することに。
宮崎兄弟とは、宮崎八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵(滔天)の4人を指す。
(荒尾市観光協会HPより転載)
4人の中では、辛亥革命の立役者・孫文の支援者であった宮崎滔天が、最も知られているだろう。
今日は滔天の展示を目当てに訪問したのだが、滔天の兄たちもまた、彼に負けず劣らず理想を追い求めた精神の自由人であった。
宮崎家は肥後藩の郷士の家系。
菅原道真を先祖とする地元・荒尾の名家であり大地主だが、城下ではなく農村に住む郷士という家柄だった彼らは、農民たちの苦労を日頃から目にしていた。
また、農民の生活を気にかけ、子供達に剣術を教えたりしていた父・長蔵の生き方を見ていた彼らは、人間の自由平等という民権思想の影響を強く受けることになる。
長男・宮崎八郎は、郷士の身分としては珍しく、藩校・時習館で学ぶことを許され、さらには東京遊学の機会を与えられるほど優秀な若者だった。
士族の没落と西洋文明の急速な導入を目の当たりにした彼は、ルソーの『民約論』を熟読し、自由民権の志を抱くようになる。
当時、大久保利通らが近代国家建設のため強引に推し進めた諸政策は、日本各地に大規模な農民蜂起を誘発しており、これを武力で弾圧する官僚専制政府は、八郎の目には「民権の敵」として映った。
東京から故郷熊本に戻った彼は、同志を募ることを目的に「植木学校」を設立し、近隣の多くの郷士層、士族層が集まってくる。
そこで教えられるのは、民権思想や演説の方法ばかりではなく、撃剣の稽古など、「来るべき政府打倒の準備」と思われる課程であった。
このような一種奇妙な学校は、やがて政府の危険視するものとなり、県令により廃校を命じられる。
やがて西南戦争が勃発。
「西郷と思想は異なるものの、現政府を打倒するには西郷の力を借りるしかない」と考えた八郎は、「協同隊」を組織し西郷方に加勢するが、八代の戦いで戦死。享年26歳であった。
八郎が明治政府に逆賊とされ、命を落としたとき、父・長蔵は残された兄弟3人を前にして、「お前たちは生涯、官の飯を食ってはならん」と言ったと伝えられている。
また、こうした夫の影響を受けた母・サキもまた、「畳の上で死するのは男子何よりの恥辱」と子供達に諭すほどの気丈な女性であり、こうした両親の言葉は、兄弟たちのその後の人生を強く規定したのである。
次男・宮崎民蔵は、八郎の14歳年下。
年の離れた兄・八郎の戦死により、15歳にして宮﨑家の家督を継ぐ。
郷土の農村の貧困を目の当たりにした彼は、「天造物である土地の均等所有を人類の基本的権利として公認させ実行する」という「土地復権論」の思想を抱くようになる。
彼は西洋社会を見聞し、自らの思想を確かめるため、欧米で日雇い労働により旅費を稼ぎながら、足掛け4年の旅をする。
民蔵はその間、英字新聞を通じて孫文を知り(弟・滔天よりも早い)、中国問題にも関心を向けるようになる。
日本帰国後、彼は「土地復権同志会」を立ち上げ、日本国内を遊説して回る。
政府により危険な社会主義者とみなされた彼は、1910年の「大逆事件」で家宅捜索を受ける。
そして、大規模な社会主義者弾圧の波に飲まれ、同志会の活動は停止を余儀なくされてしまう。
しかし、彼の土地問題に関する熱意は衰えることはなかった。
1916年に北京で再開された「中華民国憲法議会」に向けて、「民国国民皆有土地均享之権利(民国国民は等しく土地を享受する権利を有する)」の一条を憲法に加えるべきとする、自ら中国語で認めた誓願書を議会に提出している。
滔天の死後、民蔵は弟の遺志を継ぎ、晩年の孫文への協力を惜しまなかった。
そして彼は、孫文最後の病床を見舞うことを許された4人の日本人のうちの一人となっている。
彼は兄弟の中で唯一昭和の時代まで生きた。
民蔵の死後、孫文らを支援するため土地や家産を手放した彼には多くの借金が残ったが、孫文の後継者・蒋介石が香典として送った銀千元により、遺族は当面の生活をしのぐことができたという。
三男・宮崎弥蔵は、民蔵の2歳年下。
弥蔵は16歳年上の兄・八郎の民権思想の影響を強く受けていた一方、当時の日本は自由党の解体や大阪事件など、自由民権運動の主体が絶望的に瓦解した時代であった。
亡き兄の革命の意志を継ぐべく弥蔵が考え出した結論は、「国内に革命の条件は乏しく、もし革命を達成し得ても、日本は西欧帝国主義列強の支配に対する抵抗の根拠地たりえない。
現在アジアで最も可能性を有するのは中国であり、我々はまず中国革命を志向すべきだ」というものであった。
中国人になりきって革命運動を起こそうと考えた弥蔵は、横浜中華街で中国名を名乗り辮髪姿で暮らすのだが、病に侵され29年の短い生涯を閉じる。
当初、ハワイ渡航を計画していた滔天の目を中国に向けさせ、直接の影響を与えたのがこの弥蔵であった。
四男・宮崎滔天は、生涯にわたって孫文を支援し続けた。
弥蔵の4歳年下にあたり、八郎とは20歳の開きがある。
「大陸浪人」と呼ばれた彼は、孫文だけでなく、インド独立運動の父・ボースも支援しており、日本の「アジア主義」の中心人物の一人として知られている。
その命に清朝から巨額の報奨金がかけられ、日本に亡命中だった孫文を匿い、日本の援助を受けられるよう政治家や活動家に紹介。
また孫文の恵州蜂起のため武器調達を図って失敗し、あるいは自らの著作(『三十三年の夢』)や雑誌、浪曲(彼は一時期浪曲師として活動していた)を通じて、孫文の活動を世に知らしめたのは滔天である。
また、孫文と中国革命の双璧とされた、当時日本留学中の黄興とも、滔天は家族ぐるみの付き合いをしていた。
黄興と孫文の協力関係が早まったのは、二人とそれぞれ深い付き合いをしていた滔天の存在があったからである。
そして、滔天は孫文らが日本亡命中に結成した「中国同盟会」の創立メンバーとなる。
孫文は、私心を捨て、自らの家財も投げ出して支援する滔天に絶大な信頼を寄せており、「日本での資金・武器調達の全権を滔天に委任する」旨を記した全権委任書を彼に与えているほどだ(資料館に展示)。
滔天については、講談調で語られる彼の半生の自伝、『三十三年の夢』を読むことを勧めたい。
宮崎兄弟の一生は、地位や富といった社会的成功とは縁遠いものだったが、兄弟がお互いに影響を与え合い助け合った、稀有の例だったことは間違いない。
そして、こうした兄弟たちの破天荒な生き方の陰には、彼らを支える女性の存在があったことも忘れてはならない。
若くして世を去った八郎と弥蔵は別にして(2人にはそれぞれ恋人がいた)、民蔵の妻・ミイ、そして滔天の妻・ツチは、苦しい家計をやりくりしながら子供たちを育て、時には慣れない商売に手を出し、四方八方に頭を下げ借金に奔走しながら、理想に邁進する夫たちを支え続けた。
資料館では、宮崎家の4人の兄弟と、彼らに強い影響を与えた両親の生き様を知ることができると同時に、彼らが心血を傾けた中国革命に関する展示も充実している。
滔天は言うまでもなく、彼の遺志を継いだ兄・民蔵が所有していた名刺を見れば、民蔵もまた、中国の革命家たちとの広いネットワークを有していたことがわかる。
資料館の隣には、「宮崎兄弟の生家」がある。
部屋の中には、孫文と滔天が向かい合い筆談を試みる等身大の人形が置かれている。
傍に腰を下ろし、しばし思いに耽るのも良いだろう。(Y)
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