4月10日 山都町 → 椎葉村[椎葉民俗芸能博物館]→ 南阿蘇村(146km)①


今日は、昨日の行程がハード過ぎたため、ここ道の駅「清和文楽邑」で少しゆっくりしようかとも思っていた。

しかし、天気予報では今日の午後あたりから天候が崩れ始めるということなので、午前中のうちに難所を通過しておこうということになり、以前から予定していた椎葉村を訪れることに。


宮崎県北部の九州山地中央部に位置する椎葉村は、村全体が標高1000m〜1700m級の山々に囲まれ、山の中腹域の緩斜面に点々と集落が存在している。

国の天然記念物・八村杉があったり、日本で唯一焼畑農業を継承している農家があったりと、自然と共に育む伝統的な暮らしが残存。

村内の26地区で国の重要無形民俗文化財「椎葉神楽」をはじめ、「ひえつき節」を代表とする民謡や民話等、古くから伝わる慣習や伝統文化を大切に継承し、今に伝えているという。
 
そしてまた、この村も「平家の落人伝説」があり、こうした事から、「日本三大秘境」の一つに数えられているという。


この道の駅では、日曜日には文楽の公演があったり、平日でもビデオ上映があったりするので楽しみにしていたが、これは阿蘇からの帰り道に時間があったら立ち寄ることにしたいと思う。


さて、こうして再び、秘境へ向けて走り出したが、椎葉村への道・国道265号は、思いのほか走りやすかった。

しかし、やはり、村の中心部まで あと少しというところで、いきなり細い山道になり、土砂崩れも激しく、路の傍らから路上にまで大小様々な石が散乱しているという、予想通りの展開となった。

雨が降ったらアウトである。

しばらくして、なんとか無事に椎葉村に到着。



椎葉銀座と呼ばれる商店街の細い道をキャンピングカーでのしのしと入っていく。


川に沿った村の中心部には、小ぶりな公共施設が立ち並び、その周囲を取り囲むように店や民家が肩を寄せ合い集落を形成している。



観光者用の無料駐車場に車を停め、まずは定番、「椎葉民俗芸能博物館」を見学。


最初に、まず展示されているのは、この辺りに伝わる「平家の落人伝説」について。


川の上流から、上等な盃が流れてきたということで、平家の落人の里が特定されるなんてことが、本当にあったのかもしれない。



そうやって、この地まで平家の残党を追ってきたかどうかは定かではないが……。


江戸時代中期の『椎葉山由来記』には、

弓の名手・那須与一の弟・宗久(大八郎)は、源頼朝の命令で椎葉へ平氏残党の追討に向かう。

しかし、平氏残党が農地を開墾し、日々の糧を得ようと必死に働くという、戦さとは無縁の暮らしぶりを目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には「討伐を果たした」と虚偽の報告をする。

そして宗久は、そのまま椎葉に屋敷を構え、彼らに農耕技術を伝え、生活を共にし、平家の守り神である厳島神社を勧請する。

そして、清盛の末孫・鶴富姫と恋仲になり、姫は懐妊。その直後、宗久に鎌倉へ帰還命令が届く。

宗久は、「男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と鶴富姫に伝えて、太刀と系図を与え、帰国の途についた。

その後、姫は無事女子を生み、娘婿に那須下野守を名乗らせ、椎葉を支配するに至った。

と、記されている。


一方、1204年、確かに平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、「椎葉の伝説にのみ残る人物」との見方もあるようだ。



ここで、注目したいのは恋愛物語ではなく、源氏と平家の関係。

平家の落人伝説は日本各地に存在するが、源氏と平家が共存し、共に助け合って暮らしたとされる例は、この地・椎葉においてのみ。

そう考えると、これは ただの伝説ではなく、史実であって欲しいと願うばかりだ。


椎葉村では、この伝説を村民の誇りにしようと、毎年11月第2週の金・土・日の3日間、「椎葉平家まつり」を開催するようになったという。

 
「人口3,000人に満たない村に、観光客2万人を集める宮崎県下の一大祭り」といわれるこの祭り。

いつの日か、また、このまつりに合わせて、椎葉村を訪れてみたいものである。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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