昨日、宮崎県総合博物館を見学した際、宮崎の「分県運動」についての展示があった。
それによると、廃藩置県後の一時期「宮崎は鹿児島県の一部だった時期があった」というのである。
「分県運動」とは、宮崎の鹿児島からの分離独立を求める運動であったのだ。
廃藩置県後の宮崎を年表風に記すと以下のようになる。
1871年 廃藩置県当初、延岡県・高鍋県・佐土原県・飫肥県の4県であった旧日向国が、
府県合併によって美々津県・都城県に再編。
1873年 旧日向国の領域をもって、宮崎県(初代)が設置。
1876年 宮崎県が鹿児島県に合併され、宮崎支庁が置かれる。
1877年 西南戦争により当時鹿児島県であった宮崎県域も戦場となる。
1883年 国より再置県が認められ、分県が成立。
(日向国のうち、志布志郷・松山郷・大崎郷を除く)
今から考えれば、わずか二、三年の間に、何度も県域を再編するというのは随分乱暴な話に思えるが、明治初期とはそういう時代だったのであろう。
一旦宮崎県として統一された旧日向国領域も、3年後には宮崎支庁として「格下げ」されてしまう。
そもそも、宮崎を鹿児島に併合させた明治政府には、明確な政治的の意図があった。
当時、鹿児島県では反政府の士族集団が暗躍し、鹿児島を独立国にしようとする動きも見せていた。
明治政府は、こうした反政府集団の動きを分断するため、宮崎との合併を命じたのである。
実際には、宮崎県民は併合に対し、単なる境界線の変更程度にしか受け止めておらず、冷静沈着であったという。
なぜなら、宮崎県の中級以上の官吏の大半が、旧薩摩藩出身の士族で占められていたからである。
宮崎県民にとっては、鹿児島県に併合されようがされまいが、支配者は同じ。
クールな目で、事の成り行きを見守るしかなかったのである。
旧薩摩藩士の勢いを阻止するという政府側の思惑は外れ、結果として宮崎県も反政府側の勢いに飲み込まれていってしまった。
そして、1977年、西南戦争が勃発する。
この戦争は西郷隆盛を首魁とする、九州南部全域に広がった旧武士階級による反乱である。
西郷が設立した鹿児島の私学校の生徒たちを中心にしていたが、それに加えて、宮崎・熊本・大分からも多くの参加者があった。
鹿児島県となった宮崎支庁には、すでに私学校の卒業生が配置されており、彼らを通じて西郷軍への参加が宮崎各地に要請されたのである。
もっとも、その要請がどの程度の影響力を持っていたのかは、議論の余地がある。
江戸時代における日向の国・宮崎は、延岡藩・高鍋藩・飫肥藩・薩摩藩・佐土原藩と小藩が林立していた。それぞれの、大藩・薩摩藩との関係性は、各藩でそれぞれ異なっていたと思われる。
宮崎支庁からの要請を受け、かつての各藩ごとに議論が戦わされたが、旧士族の不満を受け止めた西郷軍に対し、多くの旧藩がそれぞれ部隊を組織し、西郷軍として参戦した。
旧薩摩藩都城地区、旧飫肥藩、旧佐土原藩、旧高鍋藩、旧延岡藩などが、農民兵を含め、それぞれ千数百名ほどの兵士を参加させている。
要請を受けたといっても、宮崎には旧士族階級の不満を代弁する西郷軍に積極的に参加した士族達も、それなりに多かったはずだ。
1877年2月に西郷軍による熊本城攻撃で火蓋が切られた戦闘は、当初西郷軍が主力を投じていた熊本城攻略に失敗し、田原坂の敗戦、4月〜6月の長期に渡った人吉・大口方面での攻防戦に敗れたことにより、戦場は宮崎へと移る。
官軍に追われ日向(宮崎県)の海岸部を北上し、高鍋や美々津、富高、延岡などが戦地となり、「西南の役」最大の決戦が和田越(延岡市)の戦であった。
自ら陣頭に立ち、和田峠の戦いで敗北した西郷は、8月16日に解軍を宣言し、宮崎における西南戦争は終結するのである。
西南戦争では、旧士族として進んで西郷軍に参加し本懐を遂げた者も多かった反面、西郷軍または官軍の兵士として戦争に駆り出された者、人夫として徴発され農地を追われた農民も少なくない。
後に宮崎の独立運動を牽引し、宮崎県初代の県会議長となった川越進は、当初から西郷隆盛挙兵には反対であったという。
その旨を書面で申し出、士族の会議にも欠席していたが、止むを得ず西郷軍として参加せざるを得なかった。
そして、かねてからの計画通り、戦争の最中に西郷軍から抜け出し、官軍側に加わったという。命がけで初志を貫徹したのである。
宮崎県内の旧士族達の中には、こうして不本意ながらも敵味方に分かれて戦った者もいたということになる。
そして、宮崎県内の若者は兵や兵站に徴用され、町では家屋を焼かれ、農村では牛馬を徴発され、農民達は人夫として徴発され、田畑は踏み荒らされ、戦場となった宮崎は、甚大な被害を蒙った。
さらに、西郷軍が軍需物資を調達するために発行した「西郷札」と呼ばれる軍票は、西南戦争後、政府が換金を認めず、物資を提供した商人の中には倒産した者も多く、宮崎経済は大打撃を受けた。
このように、止むに止まれず戦争に駆り出され、農地や財産まで奪われた人達が数多くいたことを考えると、宮崎県のたどった歴史の悲運を痛感せざるを得ない。
こうして、戦争終結後、川越進らによる鹿児島県からの独立を求める気運が高まってゆくのである。
その背景には、西南戦争の復興事業において、薩摩・大隅地域が優先され、鹿児島県による宮崎支庁への支出が徴収される地方税よりも少ないことに対する、宮崎の人達の慢性的な不満があり、それが「日向国」独立の起爆剤となったという。
独立運動開始当初は、まだ「日向国」としての住民の意識は希薄であったが、この県民運動は、身分差を超えて地域住民が一体となった、初めての出来事でもあった。
川越らによる嘆願書は何度も却下されたが、1883年、県議会において宮崎の独立が承認され、太政官布達により正式に宮崎県が復活した。
川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。
その後、彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁には銅像が置かれている。
彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した1912年には財産の大半を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうである。
0コメント