二日ほど雨が続き、車内清掃や雑用等で活動はお休み。
その間滞在していた道の駅「日向」は、眼前に太平洋が広がる陽当たりの良い立地。少し歩けば海岸を散策することもできる。駐車場も広い。
⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「日向」
今日は雨も止んだので、早朝から日向市郊外へと車を走らせ、「若山牧水記念文学館」を見学することに。
山の中を西へと向かい、旧東郷町地区の「牧水公園」に到着。
牧水が生誕の地を中心とする自然豊かな里山が公園となり、「牧水生家」と川を挟んで、「文学館」、キャンプ棟やレストラン、テニスコート、グラウンド等が並んでいる。
「牧水公園」の入り口では、脚に脚絆を巻き、ステッキを突いた旅姿の牧水の銅像が立ち、我々を迎えてくれる。
国民的歌人である若山牧水の短歌と言えば、
「白鳥は 哀しからずや 空のあお 海のあをにも 染まずただよふ」
「幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
などは、教科書にも取り上げられているので、誰でも口ずさむことが出来ることだろう。
「旅の歌人」として知られる彼は、全国を旅しながら15の歌集、約6900首の短歌を詠み、今も約300もの歌碑が各地に残されているという。
如何に、彼の短歌が愛されているかがわかる。
牧水の祖父・健海は埼玉の農家に生まれたが、18歳で長崎に出て医学を学び、26歳の時にこの地に移り住み、医院を開業した。
長男であった父・立蔵が祖父の医院を継いだが、騙されやすい性格で、炭鉱事業などに手を出しては失敗し、祖父の築いた財産を使い果たしてしまった。
そんな状況下、1885年8月に、この地に生を受けた牧水は、豊かな自然の恵みの中で、家族に愛されながら育った。
彼の境遇は、そのまま、自然を愛する牧水の歌風に影響している。
若山家の長男として期待された牧水は、すでに家計が傾いていた若山家ではあるが、家族・親族からの援助を受け、延岡中学から早稲田大学に進学する。
中学時代に文学に目覚め、すでに短歌や俳句の試作を続けていた彼は、早稲田の英文科を卒業後、彼を援助した故郷の人たちの期待とは裏腹に、安定した職につかず、歌人としての生活を始める。
父・立蔵は、事業を起こしては失敗するような山っ気のある人ではあったが、自由奔放な牧水にとっての「良き理解者」でもあった。
一方、母・マキは、小さな牧水を連れてよく山に入り、ワラビを摘み、筍をもぎ、栗を拾うのが好きだったという。
そんな母は、彼にとっての「山遊びの師」であった。
牧水は学生時代、園田小枝子との熱烈な恋愛を経験している。
「山を見よ 山に日は照る 海を見よ 海に日は照る いざ唇を君」
牧水はこんな情熱的な歌を残したが、この恋愛は成就しなかった。
1912年、牧水は東京で喜志子と結婚。
彼女は歌人であり、彼のよき理解者であった。
旅に明け暮れる彼の代わりに家を守り、4人の子供を育てた。
牧水は結婚したその年に、父の危篤により宮崎に帰郷している。
文学を続けるか、それとも故郷で就職するか、深く悩んだ彼は、生家の納戸に掛かっていた大鎌に自らの心情をかけて、次のように歌っている。
「納戸の隅に 折から一挺の 大鎌あり 汝が意志を曲ぐるなと いふが如くに」
10ヶ月に及ぶ帰郷から東京に戻った彼は、旺盛な創作を開始し、国民的歌人として広く認められてゆく。
牧水の短歌を幾つか紹介すると、
「日向の国 むら立つ山のひと山に 住む母恋し 秋晴の日や」
「蟋蟀や 寝ものがたりの折り折りに 涙もまじる ふるさとの家」
のように、故郷を詠んだもの。
「笑ひこけて 臍の痛むと一人いふ われも痛むと 泣きつつぞ言ふ」
「酒のみの 我等がいのち 露霜の 消やすきものを 逢はでをられぬ」
など、友と呑み語らう喜びを詠んだもの。
「夏深し かの山林のけだものの ごとく生きむと 雲を見ておもふ」
「男なり 為すべきことは なしはてむ けふもこの語に 生きすがりぬる」
のような、自らの信念だけに依って生きようとする決意が感じられるもの。
「このままに 無口者と なりはてむ 云ふべきことは みな腹立たし」
「おのづから こころはひがみ 眼もひがみ 暗きかたのみ もとめむとする」
など、鬱屈した心情を正直に詠ったもの。
「あれ行くよ 何の悲しみ 何の悔ひ 犬にあるべき 尾をふりて行く」
「ちんちろり 男ばかりの 酒の夜を あれちんちろり 鳴きいづるかな」
のように、動物や虫を取り上げたユーモラスな味のあるものなど、代表作というわけでなく、詩集からランダムに抜き出してみても、どれも親しみ易い歌ばかりである。
館内には、牧水の歌集や掛け軸、遺品・遺墨などが展示されている。
彼の最後の旅姿の写真が大きく引き伸ばされて展示されているが、自由独立の精神を感じさせる、実にいい表情をしている。
その作品の三分の一が旅の歌であり、人生そのものが旅であった牧水は、急性胃腸炎と肝硬変の併発により、1928年9月、43歳で亡くなった。
酒をこよなく愛した彼らしい死に方だった。
ちなみに牧水の死後、詩人で彫刻家の高村光太郎は、「自分は彼の写真を見て実にいい顔だと思い、いつかは自分の彫刻のモデルになってもらいたいと考えていたが、機会に恵まれず会うことのないまま亡くなってしまった」という内容の言葉を残している。
雑誌「創作」の「牧水追悼号」は、1928年12月、彼の死後3ヶ月という早さで発行され、166名もの追悼文が寄せられている。
若山牧水はまさに、文学者たちから愛された天性の歌人だった。
次に、文学館から川を挟んで対岸にある「牧水生家」を見学。
二階は見ることができないが、一階を無料で開放している。
ちょうど掃除に来ていたおばさんと、生家の前で立ち話をする。
彼女は、牧水のことを「繁ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ。
そして、生き生きと牧水の幼少期の話をする様子が面白かった。
彼女の母親は牧水の影響で短歌を嗜んでいたとのことだが、その母親も大正生まれであり、幼少期の牧水を直接知るとすれば、それは彼女の祖母の代になる。
それなのに、彼女がまるで眼前するかのように「繁ちゃん」を語れるというのは、一種の口伝の効果なのだろう、と感心する。
生家の周囲には、牧水が最も愛したという山桜が開花を待っていた。
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夕方、日向市駅で待ち合わせた大学のワンゲル部の先輩・智子さんと大学生の息子さん親子を乗せ、ワンゲル部後輩・奥井博貴 朝子夫婦の元へと向かう。
彼らはもう10年以上も、この山あいの美郷町で炭焼き業を営んでいる。
家の近くには、唯一のスーパーであるAコープと、居酒屋(焼肉屋)があった。
この店で美味い焼肉をご馳走になり、昔話に花を咲かせる。
店内ではちょうど、地元の飲み会の真っ最中だった。
地元では、かなり若い部類に入ってしまう朝子さんは、遠来の客人を連れてきたこともあって、彼らの輪の中に捕まってしまった。
地元の方言を使いこなし、おじさん達相手に世間話。
彼ら二人が、地元に溶け込んでいることがよく分かる光景であった。
その後、智子さん親子は民宿へ。
我々は、地元の顔役である区長さんに教わった公民館前の広場に車中泊する。(Y)
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