2月21日 沖縄県本部町[沖縄本島]→ 鹿児島県和泊町[沖永良部島]


今日は、二ヶ月間世話になった沖縄を離れる。

沖縄の空は小雨混じりの曇り空。

思えば、この二ヶ月の間、カラリと晴れ上がった青空は、ほとんど見られなかった。

当然、想い描いていた沖縄のエメラルドグリーンの海の写真が一枚も撮れていない。

午前中に晴れ間がのぞいていたと思ったら、午後からは土砂降りになってしまったり、

この時期の沖縄は、なかなか複雑な天候なのだ。

エメラルドグリーンの海の写真は、これから先の鹿児島県領域の海に期待したいと思う。



9時20分、フェリーは定刻に本部港を出港。

今回は途中乗船なので、基本的に2等の雑魚寝スペース。

しかも、途中乗船、途中下船ということで更に縛りがあり、行き先指定の貼り紙のあるスペースを案内される。

しかし、そこはほぼ満員で、まさにすし詰めの雑魚寝状態。 

仕方がないので、フロアのソファに居を構え、陣取る。

乗船時間は5時間ほど。

シャワーを浴びたり、本を読んだり、ネットを見たりして過ごす。


そこで仕入れた沖永良部島について記事をご紹介。

まずは、風土。

沖永良部島は、かつては全島が海面下に沈んでいた、島大半がサンゴ礁起源の石灰岩で被われた隆起サンゴ礁の島である。

沖縄本島に近く、気候も沖縄と変わらないが、開発途上で手つかずの自然が魅力。

一年中ダイビングが楽しめ、マリンスポーツ愛好者からの人気も高いという。


続いて、歴史。

14世紀、琉球王国前 北山三代目王子・真松千代が統治。
15世紀、琉球王国設立後、琉球王国に服属。
17世紀、薩摩藩の侵攻により薩摩の直轄領となる。
19世紀、廃藩置県により、鹿児島県大島郡の一部となる。
20世紀、第二次世界大戦後、アメリカの軍政下に入るが、8年後、日本に復帰する。
               戦前同様、鹿児島県大島郡に属する

以上、簡単にまとめてみたが、中国と薩摩の支配を受けた琉球。さらにその琉球と薩摩から支配されるという複雑な立場に置かれていたことが見て取れる。


文化風俗的には、圧倒的に沖縄。

信仰を司るユタ、ノロ、洗骨の儀式があり、

島に伝わる民謡の多くが沖縄同様の琉球音階 。

カチャーシーが踊られる北限といわれているそうだ。


という事で、簡単に歴史と文化を勉強したところで下船となる。


14時10分、沖永良部島の和泊港に上陸。


和泊港は、昭和の香り漂う、少し小ぶりな港町。

港を出ると、すぐ目の前にあるタクシー会社の前に、この地に流刑となった西郷さんの似顔絵が書かれた看板がある。

この辺りは和泊町で、かつては薩摩藩の役所があり、薩摩藩の子孫である鹿児島系の人々が多く居住するという。

この島は、和泊町と知名町の2つの町に分かれ、和泊町には鹿児島に、知名町には沖縄に帰属意識をもつ人が多いといわれているのは、そのためか。

小さな島なので当然合併の話はあったのだが、6年ほど協議されたのち、知名町の拒否により実現しなかったそうだ。

住所は、鹿児島県大島郡和泊町、知名町となり、どこにも沖永良部島の名がない。

鹿児島県大島郡和泊町、知名町と記されているだけで、一体どれほどの人が、その場所を沖永良部島と特定することができようか。

人口1万4千人あまりのこの島にとって、どんなメリットがあるのだろう。


そんなことを考えながら、とりあえず、港から比較的近いところにあるコンビニを目指す。

駐車場に車を止め、軽い昼食を買い込み、作戦会議することに。



島には大手コンビニはないが、なかなかの品揃え。

外国人の店員さんが、頑張って働いている。

そういえば、この島には100人ほどの外国人研修生がいるという記事を最近目にした覚えがある。


さて、まずは、今晩の宿営地を確保しなければならない。

この島には道の駅がなく、今夜どこに泊まるかについて、全くあてがない。


この先の道沿いに「沖永良部島観光協会」があることがわかり、そこで情報収集することにする。


駐車場を出て南下して行くと、「卒業式」と書かれた立て看板が。

ここは島唯一の高校、沖永良部高校だ。地元では「沖高」と呼ばれている。

ヘルメットにセーラー服で、颯爽と風を切って進む50ccのバイク隊とすれ違う。

島にとっては、ごく当たり前の高校生の帰宅風景だが、我々の目には新鮮に映る。


沖永良部島観光協会に到着。


お洒落なカフェといった感じのスペース。

土産コーナーの奥のワーキングスペースで、若い男性が一人、PCに向かっている。


女性スタッフが、「何かお探しですか?」と尋ねてきたので、

「車中泊する場所を探している」と伝えると、

「車中泊ならキャンプ場しかない」という。

我々は、「トイレ以外は車の中で完結させるので、駐車場スペースがあれば良い。

公園の駐車場など、車を停めても大丈夫な場所さえあれば、そこで十分なのだ」と説明するが、

それでも、「やはり役場に声を掛けておいたほうがいい」とのお応え。

「この島内の車中泊には、届け出が必要という意味なのか」と再度尋ねると、

必ずしも届け出が必要であるという訳でもないらしい。


少しまずいところに来てしまったと感じ始める。


女性スタッフからは、
「近隣住民の方とトラブルになった時に、間に入ってくれるから」と、再三にわたり役所行きを勧められる。

「声を掛ける」とは微妙な言い回しだが、島内への侵入者を把握しておきたいということもあるのかもしれないと思い、こちらはよそ者であるので、神妙に話を聞く。

警察に通報されてようなことになっても困るので、ともかく役場に行って、侵入者の存在を明らかにしておこうということに。


島の役場は、和泊町と知名町に分かれている。   


まず近くの知名町役場へ。



途中、ふと見た交通標識に英文が添えられていて、知名CHINAと書かれていることに気がつく。


ということは、知名町はチャイナタウン……。

微妙だー。



役場では、町民課のジャニーズ風の若い男性職員が「それでしたらキャンプ場ですね〜」と、管轄する農林課(別の建物)まで連れて行ってくれた。

キャンプ場の資料が入った分厚いファイルを手にした、やはり若手の男性が現れ、親切に対応してくれる。


こちらは特にキャンプ場にこだわるわけではなく、「車中泊で問題のないところに泊まれればよい。

トイレがあり、できれば真っ暗ではないところ」という希望を改めて伝える。

こちらの要望を、奥にいる上役の男女二方に伝え、何やら相談中。

ああでもない、こうでもない、と親身になって考えてくれている様子が伝わってくる。

キャンプ場だと時期的に灯りがないということで、別な場所をいくつか電話で問い合わせてくれた。

その間にも、「役場の駐車場でもいいけど、夜はトイレが使えないしなぁ」などと、上役同士が話している声も聞こえてくる。


なんだか、いよいよ大変なことになったぞ、と思い始める。


しばらくして彼が紹介してくれたのは、沖泊漁港にある沖泊公園。

ここなら許可証なしでも車中泊ができるらしい。

ほっと胸を撫で下ろし、役場の皆さまに深々と頭を下げて、役場をあとにする。


若者が汗をかき、年配の方々が相談に乗りながら温かく見守るというような、ほのぼのとした中に生真面目さが漂う、理想的な役場という雰囲気が感じられた。


近くのスーパーで沖永良部産の刺身などを買い込み、教えられた場所へと向かう。

岩場の海岸添いの港にあり、やや寂しい感じ。

せっかく教えてもらった場所ではあったが、やはり別の場所を探そうということで、知名町から和泊町に戻り、ひとまず見学を予定していた「和泊町歴史民俗資料館」に行ってみる。




ここの駐車場は広めで、近くには公園やミニゴルフ場、研修施設もあり、賑やかな雰囲気。

駐車場横には、人感センサーライト付きのトイレがある。

周囲に人家はなく、一晩くらいなら駐車していても邪魔にはならず、特に問題もなさそうだ。

今晩は、この場をお借りする事にして、閉館間近の資料館へと向かう。


入ってすぐにユリの花が展示されていたので、一瞬植物園に入ったのかと思った。


実は、沖永良部のユリ栽培は有名であり、かつては球根がオランダにも輸出されていたのだ。

というわけで、小さな資料館の1/3ほどのスペースはユリに関する展示。綺麗なユリの花の数々と、島に戦前から続くユリ栽培の歴史、世界におけるユリの文化についての内容である。

天然のユリは種子で繁殖するが、繁殖の確率は100万分の1と極めて低い。

しかし、沖永良部の石灰岩の地質はユリの生育に合っているらしく、貴重な品種が100年以上も昔から栽培されてきた。

第二次大戦中は「敵国に輸出するものを作ることはまかりならん」という軍部の命令により栽培がストップしたが、「戦争が終わったとき、島の経済を支えるのはユリしかない」と考えた偉い人がいて、密かに栽培を続けていたらしい。そして現在まで続いているのだから大したものである。

沖永良部島でユリ以外に広く栽培されてきた作物にサトウキビがあるが、どちらも換金作物である。


島の食生活を支えてきたのは、正月などハレの日にさばき、保存食にして一年間大切に食べる豚肉以外には、サツマイモや米が中心だった。


沖永良部島は1960年代までは自給的農業が主であり、米やサツマイモをほぼ自給し、それ以外に少量の野菜を栽培していた。


降水量は多いがめぼしい山や森林がなく、水の少ないこの島で、かつてかなりの規模で稲作が行われていたというのは驚きである。

水資源確保のため島には多くの溜池があるが、雨に恵まれない年は、人力で溜池から水田に水を引き入れていたという。



興味深いのは、水田の畦の内側にソテツの葉を立てている白黒写真が展示されていたことである。

田んぼの畦の内側に、ソテツの葉がまるで農業用パイプのように突き刺してある。

丈夫なソテツの葉で壊れやすい畦を補強しているのだ。

また、ソテツの葉を緑肥として、田植え前の水田にすき込んでいた。

ところが、1970年代の減反政策以降、水田はサトウキビ畑に変わり、今では稲作文化を保存しようとするイベント的な稲作の試み以外には、島の水田は完全に消えてしまった。



ソテツの活用については、上記の水田の事例と並んで、「ソテツ味噌」も興味深いものである。

ひどく手間がかかり、あまり美味いものではなかったようだ。

ソテツの実を水に晒し、干すことを繰り返して毒を抜く。実を砕いて煮込み、乾燥させ粉末にする。

ソテツの粉末に玄米や小麦を加え、セイロで蒸す。そこにコウジカビをふりかけ、麹とする。

この「ソテツ麹」に茹でた大豆やサツマイモ、塩などを加えて臼で叩き潰す。

それを小さな団子状に丸めて、焼酎を内側に塗って消毒した甕に入れて発酵させると、1ヶ月くらいで食べられる。

書いているだけで、「大して美味しくはないソテツ」を食べる過程としては、あまりにも面倒だなあと思う。



ソテツというと、救荒作物で有毒だが仕方なく食べていたイメージが強いが、島の人たちは貧しいながらも、身の回りにあるソテツを最大限活用すべく、その実を食べる以外にも、農業用資材にしたり、肥料にしたりと、いろいろと工夫してきた歴史があった。

飢饉や薩摩からの過重の年貢負担により、やむなくソテツに頼らざるを得なかった、かつての奄美地方を象徴する言葉として「ソテツ地獄」がある。

その一方で、奄美地方では「ソテツガナシ(「ガナシ」は尊称、ソテツ様という意味)」という言い方もあったらしい。

それだけソテツは生活に密着し、それにより生活が支えられており、ソテツに対する信仰に近い感謝の念も生まれていた、という点を見過ごしてはならないと指摘する人もいる。



この資料館では、他にも、この土地の地域の結びつきを強めるための習俗「一重一瓶」や、



人の一生の通過儀礼と行事、



「洗骨」など、弔いに関する儀式などについての展示や、



ヘビ皮の三線など、琉球文化の影響を色濃く残した「えらぶ文化」についての展示があった。



資料館の隣には、伝統家屋と倉庫の展示もあった。



台風対策か、沖縄の倉庫より、さらに収納スペースが高い位置にあるような気がした。




一通り見学して駐車場に戻り、車内で、明日の名瀬行きフェリーを電話で予約する。

マリックスより若干豪華だというマルエーフェリーに電話すると、明日の便は代理店受け付け、とのことで山田海陸航空に電話する。

返答を貰うまで、かなり待たされたが、なんとか無事に予約完了。

ただし、フェリーは「条件付き寄港」。

低気圧の通過で、2つある港に寄港できるかどうか分からないとの話。

かりに寄港できた場合の寄港先の確認の為、明日12時頃会社に電話して欲しい、とのことだった。

出港予定時間は14時40分。特に予約番号はなし。


沖永良部島は、台風のジャンクション。

台風は、ここを経由して方向を変えてゆくことが多い。

1977年に発生した沖永良部台風では、日本の観測史上1位となる最低気圧907.3hPaを記録し、最大風速39.4 m/s(最大瞬間風速60.4 m/s)を観測。

島内75%の住家が全半壊するなど大きな被害が出たという。

どうりで、島をぐるりと走り抜けてみても、古い伝統的家屋が見当たらないわけである。 



駐車場の隣はゲートボール場になっており、お年寄りがプレーの真っ最中。

華やいだ笑い声が夕陽の向こうから聞こえてくる。

なかなか居心地の良い空間である。


キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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