1月26日 那覇市→浦添市[浦添グスク]→北谷町(21km)


24時間500円。安全で静かな若狭公園の駐車場をあとにし、今日の目標は「浦添城(うらそえグスク)」

「グスク(城)」と呼ばれる城の跡は、沖縄本島や八重山諸島など沖縄各地、および奄美諸島などに残されている。

首里城のほか、今帰仁城、座間味城、勝連城、浦添城などが有名だ。


「浦添グスク ようどれ館」の駐車場に車を停めて、施設を見学。

ここでは、浦添城跡の歴史をパネルや出土品で紹介している。



「ようどれ館」の「ようどれ」とは琉球国初期の王陵のこと。琉球語で「夕凪」を意味するという。

この城(グスク)跡には、城に隣接して琉球国(古琉球時代)の中山王(英祖王、尚寧王)の墓があるのだ。


まずは、浦添城の歴史をビデオで学習。

浦添城は13世紀、舜天王の時代に築かれたと伝えられる。

舜天王は、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられており、22歳で中山王として即位したとされ、しかも源為朝の子であるという伝説がある。

その後も中山王の居城とされたが、琉球王国を統一した尚巴志によって中山国が滅ぼされると、琉球王国の居城は首里城となり、浦添城は荒廃する。

琉球王朝の尚真王の長男・尚維衡が浦添城に居住し、浦添家と呼ばれた。

尚永王のとき、彼には男子が居なかったため、浦添家4代目の尚寧が琉球王となった。
彼は悲運の王であった。

彼の在位時代に薩摩藩による琉球侵攻があり、その後琉球は250年もの間、薩摩藩の支配下に置かれることになる。

尚寧王は、英祖王の墓であった「浦添ようどれ」を整備し、自らも首里ではなく、この地に葬らせたという。


王陵の内部は一般公開されていないが、「ようどれ館」には、その内部が復元され、見ることができる。



「ようどれ館」を出て、100mほど歩いたところに「浦添ようどれ」を含む浦添城跡がある。



この一帯は前田高地と呼ばれ、第二次大戦の沖縄戦で日本軍が立て籠もり、連合軍の攻撃により大きく破壊された。




城跡は今世紀に入って復元作業が終了し、当時の様子を偲ぶことができる。



手前が英祖王陵、奥が尚寧王陵。



城跡は広い高台になっていて、沖縄本島の西海岸と、



東海岸の両方を望むことができる。


静かで厳粛な雰囲気が感じられる場所であり、ひとり坐禅を組んでいる男性がいた。



あまり近くに寄って邪魔をしてはいけないと、

前日の失敗を胸に、遠くの小径を辿り、静かに通り過ぎようと思っていたら、

大きなカメラを首から下げた男性が、いきなり座禅の修行者に近づき、何やら話しかけ始めた。

修行者は、普通に返事をしている様子。

カメラのおじさんは、汗を拭いながら近くに腰を下ろし、そのまま会話を続けている。


この場所は、御嶽が多く、御祈りの場所と聞いていたのに……。



一昨日、あれだけ厳しく「お祈りの邪魔をしないように」と注意を受けていただけに、

なんだか、少し肩透かしを食らったような気分。




キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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