24時間500円。安全で静かな若狭公園の駐車場をあとにし、今日の目標は「浦添城(うらそえグスク)」。
「グスク(城)」と呼ばれる城の跡は、沖縄本島や八重山諸島など沖縄各地、および奄美諸島などに残されている。
首里城のほか、今帰仁城、座間味城、勝連城、浦添城などが有名だ。
「浦添グスク ようどれ館」の駐車場に車を停めて、施設を見学。
ここでは、浦添城跡の歴史をパネルや出土品で紹介している。
「ようどれ館」の「ようどれ」とは琉球国初期の王陵のこと。琉球語で「夕凪」を意味するという。
この城(グスク)跡には、城に隣接して琉球国(古琉球時代)の中山王(英祖王、尚寧王)の墓があるのだ。
まずは、浦添城の歴史をビデオで学習。
浦添城は13世紀、舜天王の時代に築かれたと伝えられる。
舜天王は、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられており、22歳で中山王として即位したとされ、しかも源為朝の子であるという伝説がある。
その後も中山王の居城とされたが、琉球王国を統一した尚巴志によって中山国が滅ぼされると、琉球王国の居城は首里城となり、浦添城は荒廃する。
琉球王朝の尚真王の長男・尚維衡が浦添城に居住し、浦添家と呼ばれた。
尚永王のとき、彼には男子が居なかったため、浦添家4代目の尚寧が琉球王となった。
彼は悲運の王であった。
彼の在位時代に薩摩藩による琉球侵攻があり、その後琉球は250年もの間、薩摩藩の支配下に置かれることになる。
尚寧王は、英祖王の墓であった「浦添ようどれ」を整備し、自らも首里ではなく、この地に葬らせたという。
王陵の内部は一般公開されていないが、「ようどれ館」には、その内部が復元され、見ることができる。
「ようどれ館」を出て、100mほど歩いたところに「浦添ようどれ」を含む浦添城跡がある。
この一帯は前田高地と呼ばれ、第二次大戦の沖縄戦で日本軍が立て籠もり、連合軍の攻撃により大きく破壊された。
城跡は今世紀に入って復元作業が終了し、当時の様子を偲ぶことができる。
手前が英祖王陵、奥が尚寧王陵。
城跡は広い高台になっていて、沖縄本島の西海岸と、
東海岸の両方を望むことができる。
静かで厳粛な雰囲気が感じられる場所であり、ひとり坐禅を組んでいる男性がいた。
あまり近くに寄って邪魔をしてはいけないと、
前日の失敗を胸に、遠くの小径を辿り、静かに通り過ぎようと思っていたら、
大きなカメラを首から下げた男性が、いきなり座禅の修行者に近づき、何やら話しかけ始めた。
修行者は、普通に返事をしている様子。
カメラのおじさんは、汗を拭いながら近くに腰を下ろし、そのまま会話を続けている。
この場所は、御嶽が多く、御祈りの場所と聞いていたのに……。
一昨日、あれだけ厳しく「お祈りの邪魔をしないように」と注意を受けていただけに、
なんだか、少し肩透かしを食らったような気分。
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