11月14日 北杜市[小淵沢]→清里→富士川町(92km)


さすがに標高1,000mを超える道の駅の駐車場は冷え込む。
昨晩はいつもより一枚多く着込んで就寝する。
そのせいか、今朝は眼に映る映像がクリアーに感じられる。
空気も一段と澄んでいるようだ。

シーズンオフを迎えたこの辺りのコーヒーショップやレジャー施設は、現在休業中の看板も多いが、あと一ヶ月もすれば冬本番となり、本格的なスキーシーズンを迎えようとしている。


昨日は土砂崩れによる通行止めで足止めを食らってしまったが、観光案内所の方から清里方面への別ルートをお聞きしたので、少し遠回りではあるが小淵沢市街地を抜け、鉄道路線と並走して清里まで向かうことにする。





紅葉も終盤とはいわれているものの、車窓から覗く紅葉は美しく、周囲の山々、青空によく映える。


途中、気になる神社を見つけたので写真に収める。


そういえは、この神社のパンフレットを観光案内所でもらつていたはず。
気になって見てみると、確かにあった。


古神道本宮 身曾岐神社  だ。


ウィキペディアによると、

「天照太神、天徳地徳乍身曾岐自在神を祀る、山梨県知事所轄単立宗教法人」だそうで、「1985年(昭和60年)、禊教の教主・管長の坂田安儀が創建。身曽岐神社を中心に禊教本部聖地「高天原」を制定」し、「2006年以降、ゆずが度々同内能楽殿でライブを行っており、2008年の公演は『素晴らしきこの世界』として通信販売限定DVDにまとめられている。2011年10月20日にはゆずの北川悠仁と、フリーアナウンサーの高島彩が挙式したことで知られるようになった。また、能楽殿においては、2017年auのCM「夏のトビラ・英雄だけの夏」篇のロケが行われた」

そうである。


敷地面積 約三万四千平米。神殿や池に浮かぶ能楽堂など幾棟もの豪華な建造物が居並ぶという、その神社の現在の所有者は、人気デュオ「ゆず」の北川悠仁さん。


どうりで、神社のホームページにある御守りや絵馬が「ゆず」づくしのわけである。


(写真は、古神道本宮 身曾岐神社ホームページより、転載させていただきました。)



さて、話もルートも横道にそれたので、車は本来の目的地・清里へと向かう。

清里といえば、なんといってもペンション。バブル期に「高原の原宿」といわれ、若者がこぞって訪れた避暑地。

清里は、1935年以降、東京都西多摩郡奥多摩町の小河内ダム建設で移転を余儀なくされた人々や、入植者などによって開拓され、JR清里駅を中心に発展してきたニュータウン。

1970年代から『an・an』『non-no』等、女性誌に度々登場し、「清里ブーム」が到来。その後、勢いに乗ってペンションやタレントショップなどが並ぶ人気スポットとなった。

ピーク時はバブル崩壊直前の1989年。年間254万人の観光客か訪れ、ペンションの数は約130棟に上ったという。

その後、しだいにブームは沈静化していったようだ。

お昼時だというのに、閑散としたメインストリート。
最も賑わったエリアは、立ち入り禁止状態に。
バブル当時は一時間200円だったセンターの駐車場も、今では無料。
閑散とした空き地に、無造作に看板が立てかけてある。


ここに移住し、起業された人々の多くが、この街を離れていったという。
今なお、ここに残り続けているのは、観光以外で収入を得られたり、生活資金を調達することが可能な人ということになるのだろう。



清里は、ブームとなったエリアだけに注目するとゴーストタウン化し、抜け殻のようになってしまった。

しかし、俯瞰でもう少し広い範囲を眺めてみると、違った側面も見えてくる。


それは北杜市。

旧山梨県北巨摩郡に所属した小淵沢町、長坂町・高根町(清里)・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村が合併して生まれ、2018年10月1日現在の総人口が45,000人弱。

移住情報誌「田舎暮らしの本」の「2018年版  住みたい田舎街ランキング  小さなまち総合部門」で、堂々第1位に輝いたという人気移住地である。

清里は、この北杜市に含まれており、都心とこの地を2時間弱で結ぶ JR清里駅もバリバリ現役。


構内では、JR信越本線の横川駅名物「おぎのや  峠の釜飯」の販売も行われていて、この周辺の観光の窓口としても活躍を続けているようだ。

実際に、我々が駅に滞在した、ほんの15分ほどの間にも、到着した列車からは20〜30人程の観光客が乗り降りしていたし、大きな観光バスも横付けされていた。

アウトレットや牧場、標高1900mの場所に作られた高原リゾート『サンメドウズ清里』の「清里 テラス」も人気のスポットとして注目を集め始めているらしい。


駅前のお土産屋さんが閉まっていたり、テナントが売りに出ている状態は、「あの栄華を誇った清里が!」と特別ししてしまうからであり、100年、200年ともっと長いスパンで見れば、かつての繁華街など跡形もない。日本全土を見渡せば、どこにでもある光景なのだ。


栄華は長くは続かない。鴨長明も方丈記で語っている。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。

住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

【現代語訳】
流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいて そこを流れる水はもとの水ではない。河の流れのよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消えてなくなり、また一方では形ができたりして、長い間そのままの状態で留まっている例はない。この世に生きている人と、その人たちが住む場所も、またこの河の流れと泡のようである。

宝石を敷き詰めたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い者や、低い者の住まいは、時代が経ってもなくならないものではあるが、これは本当にそうなのかと調べてみると、昔から存在していた家というのはめったにない。
あるものは昨年焼けてしまい、今年造っている。あるものは大きな家だったのが落ちぶれて小さな家となっている。

住む人もこれと同じである。場所は変わらず、人も多いが、過去出会ったことのある人は、2,30人のうち、わずかに1人か2人である。朝に人が死に、夕方に人が生まれるという世の定めは、ちょうど水の泡に似ている。

私にはわからない、生まれ死んでゆく人は、どこからやってきて、どこに去っていくかを。またわからない、生きている間の仮住まいを、誰のために心を悩まして建て、何のために目を嬉しく思わせようとするのか。その家の主と家とが、無常を争うかのようにはかなく消えていく様子は、言うならば朝顔と、その葉についている露の関係とたいした違いはない。あるときは露が落ちて花が残り、残るとは言っても朝日を受けて枯れてしまう。あるときは花がしぼんでも、露は消えずに残り、消えないとは言っても夕方を待つことはなく、その前に消えてなくなってしまう。


鎌倉時代とて同じこと。歴史は、その繰り返しなのだ。



清里は、今、北杜市の一員として、これからまた新たな時代を築こうとしている。

この周辺の魅力の一つに、日本一の日照時間があげられる。
確かに、このエリアに来てからというもの、晴れの日が多く、空気が澄んでいるせいか、心なしか陽射しも強く感じられる。そうと知ってしまったことによるハロー効果というものなのか、辺りの景色がキラキラ輝いて見えるのは気のせいだろうか。

ここで、ひとつ気がかりなのは、この地でも当然ながら発生している売電ブーム。山林や遊休地に「パネル畑」が次々と誕生し、現在、このパネル事業の認可数は、北杜市内だけでおよそ4000件ほどあるという。

最近、パネル設置のために森林を伐採し、乱開発を進めた結果地滑りが起きたり、景観が変わってしまったりと被害が出始めているそうである。

「南アルプスの天然水」で有名な湧水市場を狙う動きも気掛かりだ。


元々の地域住民の方達、この土地を愛し惚れ込んだ人達、その土地で生きていこう、骨を埋めていこうとする人達を裏切ることないよう、新たに地権者となった人達、またなろうとしている人達には努めていただきたいものだ。

自らも、川に浮かぶ泡のように、いずれは消え去って行く存在であるのだから、せめてその川を枯らさぬように、汚さぬように。



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