10月11日 湯川村→会津若松市[福島県立博物館]→湯川村[道の駅 あいづ]

今日は曇り空。午前中は道の駅で休養し、午後から福島県立博物館に行く。

福島県では県立博物館が、なぜか県庁所在地福島市ではなく、ここ会津若松市に置かれている。
 
鶴ヶ城公園の敷地内にあり、周囲には松林や歴史的建物が沿道に並び、落ち着いた城下町の風情が漂う。 

現在、屋根と外壁の工事中。
 今年は、企画展「戊辰戦争150年」が開催されている。


まずは常設展から。

例によって古代の出土品から展示は始まるのだが、耳飾りなどの装飾品に混じって「耳栓」があるのが面白い。
市販の耳栓と似たような形状で、耳に入れると痛そうだが、どんなときに使ったのだろうか。

「陶棺」という焼き物で作られた棺は初めて見たが、東北地方では唯一の出土品とのこと。

他にも、変わったポーズをとる埴輪や



1000年前の人の名前の書かれた木簡など、

多彩な展示品の数々。

民俗関係の展示では、水田での作業で用いる横長の田下駄「ナンバ」も、猪苗代地方独特のものらしい。
水には沈まないが、かなり歩きづらそうだ。


東北地方は江戸時代、たびたび飢饉に見舞われたが、農民の窮状を見かねて幕府に直訴した義民についての展示もある。



また、戦後まで盛んに行われた養蚕に関する展示もあり、
福島地方における伝統産業の発達が実物で実感できるようになっている。


多賀城市の東北歴史博物館や仙台市博物館同様、非常に充実している常設展であった。


続いて、今日のメインである企画展会場へと移動する。


東北の旅を始めてから各地で訪れた資料館では、各藩が戊辰戦争とどのように関わったかが、多少説明内容に差はあれ、必ず展示されていた。

ここ会津では、戊辰戦争で幕府側の最大勢力だった会津藩を中心に据え、戊辰戦争を鳥羽・伏見の戦いから時系列に当時の書簡などを通じて追っている。

薩長が革命を成就させるには、徹底的に倒すべき“旧体制”が必要であった。
早々と恭順してしまった幕府のボス・徳川慶喜の代わりにスケープゴートとされてしまったのが、幕府や天皇家に忠義を尽くしてきた会津藩だったわけである。こうして、会津藩は新政府軍から「逆賊」の汚名を着せられ、朝敵とされてしまった。

この事態に納得がいかず、会津藩を救おうとし、結果奥羽列藩同盟を結んだ仙台藩など各藩の関係者、その後加わった長岡藩の河井継之助などの直筆の書簡や書なども豊富に展示されている。 

鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は1968年2月、江戸城を出て謹慎する。

会津藩主・松平容保も会津に戻り嘆願書を出し、養子に家督を譲った。しかし、新政府軍の会津藩に対する強硬な態度は変わらない。

3月には会津藩は来るべき戦争に備え、軍制改革を行う。同じ月、新政府の鎮撫総督軍は仙台城下に着いていた。新政府軍と会津藩との板挟みになった仙台藩は、4月にカモフラージュのための戦闘を会津藩との間で行う。

同月、奥羽各藩による白石会議が開かれるが、新政府軍との和平の道は閉ざされ、5月3日に奥羽列藩同盟が結成される。この数ヶ月の緊張した動静が、当時の書簡により再現されている。

書簡以外に見応えがあるのが、いわゆる「錦の御旗」の実物である。正義の象徴とされたこの旗は、岩倉具視がデザインを考え、長州藩により製作されたものだった。また、各藩の兵士がそれぞれ身につけていた「肩章」も貴重な展示物である。

新政府軍の錦旗と奥羽越列藩同盟の旗の実物(日刊SPAより転用)


今年は、日本が新しく生まれ変わったとされる「明治維新後150年」を迎えたことで、内閣府(内閣官房「明治150年」関連施策推進室)主導による記念式典やイベント、企画展等が、日本各地で盛大に開催されているようである。

とりわけ9月から11月にかけては、毎日70件ほどのイベントが開催されるらしい。


しかし、多くの犠牲を強いられた東北の人たち。この土地の人々にとって「先の戦争」といえば「戊辰戦争」。150年前に負った心の傷は癒えてはいない。

東北人にとって、今年は「戊辰戦争150回忌」。

そういう見方が存在するということを我々は忘れてはならないだろう。

そして、この時から日本は軍国主義、覇権国家として舵を取り始めたのだということも……。


キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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