10月10日 二本松市[二本松歴史資料館]→飯舘村[道の駅 までい館]→湯川村[道の駅 あいづ](175km)①


昨晩、少し雨が降ったが、朝はどんよりとした曇り空。

今日は、まず近くの二本松市歴史資料館へと向かうことに。

資料館の駐車場は2台分のスペースしかない。仕方がないので、隣にある1時間100円の有料駐車場に停めることにして、係員の所へ行って手続きをしようとすると、「資料館見学者は中で駐車場券を発行してもらえば無料になる」とのこと。「その代わりに車の鍵を預けて欲しい」という。

我々の車は普通の車と違い[走る家]なので、おいそれと人様に自宅の鍵をお渡しする訳にも行かず。しばし考え込み、「ならば免許証ではどうか」と問うと、「そんな大事なものは預かれない」という。こちらからしたら、(失礼ながら、再発行の効くという意味で)免許証よりも、車の鍵を渡す方がよほど大変なことなのに、と係員の慌てぶりに、こちらも当惑する。
 
最終的に、「何でもいいから預からせてほしい」と言うので、ポンタカード
を預けることで一件落着。

結局、何のために必要な手続きなのか、理解に苦しむ。


気を取り直し、企画展の「二本松藩と戊辰戦争」を観る。

二本松藩では、江戸幕府に入って 蒲生氏、松下氏、加藤氏と領主が度々変わったが、1643年に加藤氏が改易され、以降幕末期に至るまで丹羽氏が二本松藩10万石の大名として、現在の二本松市と郡山市の北部あたりを治めることになる。

もともと、丹羽氏は関ヶ原の戦いでは豊臣方に属したため、徳川家康によって改易させられていた。しかし、丹羽長重の正室が織田信長の娘であり、家康の息子・秀忠の正室とは従姉妹の関係にあることなどから、秀忠が口をきき、10万石の大名として復帰した。

こうした経緯から、丹羽氏の徳川幕府に対する忠誠は非常に強いものであったという。

10代藩主・長国のときに戊辰戦争が起こり、二本松藩内では「新政府軍に恭順するか、徹底抗戦か」で藩意が分かれたが、最終的に奥羽列藩同盟への参加を決め、徹底抗戦の道を選ぶ。

奥羽街道の玄関口に位置し、白河城の城郭も預かる二本松藩は、隣接する三春藩の新政府軍への寝返りなどにより、二本松城は落城。
城内にいた藩士が全滅したのは、藩主が米沢に逃亡した翌日の事であった。


今回の企画展では、題名の通り、二本松藩が戊辰戦争において どのように戦ったのかについて、絵図面や古文書などにより時系列に追えるようになっており、さほど大きくはない展示室ながら、充実した内容であった。


二本松城の落城の際には、もともと2000人弱といわれる二本松藩士は、北上を続ける新政府軍を迎え討つべく奥州最南端白河城をはじめ、各地の戦闘へと出向いていたため、主力部隊が不在。城を守るのは老人隊、少年隊、農民兵を含む予備兵のみ。

最後に二本松城内に残ったのは、城代・丹羽和左衛門ら16名で、彼らの壮絶な死に様は記録に残されている。

また、会津の白虎隊と並び称される「二本松藩の少年隊」は、隊長ら幹部を除いては12歳から17歳の隊士62名で構成され、そのうち14人が戦死した。

身体の小さい者は、背負った刀を一人で抜くことができず、他の者に抜いてもらうか、互いに向かい合い腰を折って相手の刀を抜いた、との生存者の話も残っている。


この戦いについて、「仙台戊辰史」では、三春藩が裏切って、後方から二本松藩士に銃撃を浴びせたことを敗因として上げている。

しかし、新政府軍側の記録には寝返りの記述は一切ないという。

勝てば官軍。正史とは、いつの世も こうして作られて行く。


「うつ人も うたれる人も 哀れなり」 (敵将・野津七次の回顧談より)

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