夜明け頃、ふと空を仰ぐと、サーモンピンクのやわらかそうな雲が綺麗な模様を描いていた。
そういえば、昨晩頭上を見上げた時も、星がキラキラと輝いていて、いつもより空が深く感じられた。
この辺りが山並みの途中であるせいか、夜中の道の駅「にしかわ」の利用客は ほとんどなく、駐車している車は5台ほど。100台以上停められる駐車スペースに、ポツンと一台、遠くの隅っこに また一台、という感じ。夜9時の温泉施設の営業が終了すると一斉に灯りが落とされ、トイレ周辺の灯りを除くと何も見えなくなる。当然、KYのキャンピングカーの周囲も真っ暗闇の状態であった。
そんな、少し心細くて、落ち着かない夜を越えて迎えた朝だったから、待ち遠しかった夜明けだっから、あんなにも空が輝いて見えたのかもしれない。
本当に、本当に、透き通るような朝だった。(K)
お世話になった道の駅「にしかわ」を後に、車は天童市方面へ。途中、寒河江市周辺では広大なサクランボ畑の間を走る。
道の駅「天童温泉」は、本屋やレストラン、カフェが併設され、なかなか居心地が良さそう。近くには温泉街、公園、回転寿司、コンビニやスーパーの看板も見える。
⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「天童温泉」
ここを山形市や周辺地域散策の足がかりとすることにして、午後は休養とする。
(コラム)ジョギング中に出会った石碑を見て考える
昨日、道の駅「にしかわ」の周辺をジョギングしていると、静かな山あいの墓地を背にした路傍に、優に人の身長の倍はあろうかという大きな石碑があった。「三山敬愛教会記念碑」と書かれてある。隣に小振りな「三山永代記念碑」があるので、「キリスト教会の跡地」ではなく出羽三山に関係した何かの組織だろうか。
帰ってネットで調べてみると、明治の廃仏毀釈運動に関係した石碑だった。
石碑の裏には「三山敬愛教社の設立」と題して、以下の主旨の本文が書かれている。
「明治政府による神仏分離政策により、明治6年から7年にかけ、出羽三山はそれぞれ神社として再編された。三山の各登拝口には社務所が設けられたが、地元をはじめ参拝者に多くの混乱を与えた。その後、教務省認可の『三山敬愛教社』も各登拝口に設置され、権少教正・西川須賀雄が教主に就任した。教社の発足は在地の宮司により組織立てられ、政府の担当管理が助勢するものであり、神道の新たな組織の立ち上げにおいては、国教としての神式の作法を形の上からも植え付ける必要があった。明治13年より県当局の許可を得て、参詣者に対して『三山参詣人保護印鑑』を発行した。先導者にこれを授け、人数・氏名などを記載し割印を押し、巡拝中の月山・湯殿山など各所で改めるというものであった。吹雪や風雨の強い日には発付しないなど、遭難防止の意味も持っていた。」
この石碑は大正2年に建立されたもの。「教会」と「教社」の言葉の使い分けは、組織が「教会」、建物を「教社」としているのか。この地が登拝口だったのか、あるいは登拝口にあった石碑をここに移してきたものだろう。
山形鶴翔同窓会(山形県立鶴岡南高校)のホームページに投稿されていた文章、「出羽三山による神仏分離」(渡部功氏)を読むと、石碑にある西川須賀雄教主と彼の廃仏毀釈の活動について、例えば以下のような事実が書かれている。
「西川宮司は出羽三山の廃仏毀釈を強力に推し進めた人物で、弾圧の対象は寺院だけでなく、出羽三山で盛んだった修験道にも及んだ。西川は1875年に出羽神社(羽黒山)の付属組織として「赤心報国教会」を設立し、修験道の重要行事である「峰中」を同教会の行事として再編しようとした。修験者側は従来の習慣を保持するための内部規約を作り、違反したものを村八分にするなどして抵抗した。赤心報国教会がその後「三山敬愛教会」(この石碑にある ※筆者注)となり、修験者の多くは最終的に下級の神官として組み込まれることになる。そこには、修験道が財源としていた、巡礼者へのお札の発行が認められなくなったことも影響した。
なお、修験者(山伏)への統制はすでに江戸時代にもあり、彼らは幕府により、天台系(本山派)か真言系(当山派)のどちらかに属するとされ、遊行を禁止されたため妻帯し定住(里山伏)となり、庶民の現世利益への要望に応える形で、加持祈祷などの呪術的な活動を行ない生計を立てていた。」
また、出羽三山神社のホームページには、「出羽三山とは月山・湯殿山・羽黒山の総称で、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、出羽大神、月山は月読神、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない」とある。そして、この簡潔な記載からは、神仏習合から廃仏毀釈運動への、一面では極めて政治的な激動の流れは感じられない。
日本史の教科書にあった「明治の廃仏毀釈運動」という言葉は知っていても、また「日本は江戸時代までは神仏習合の国であった」というぼんやりとした認識はあっても、正直、今回羽黒山や湯殿山周辺を歩くまで、そのことを真面目に考えたことはなかった。農村であれば、田植えや稲刈りなどの農作業に深く関わる季節の祭りがあり、それらは神事を兼ねていて、厳しい農作業の合間の楽しみともなる。そんな生活に密着した「神との関わり」も、一つの宗教組織として生き残ってきた経緯を考えると、余りにも複雑な歴史的背景があるのだと改めて思い知らされた。(Y)
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