8月15日 一関市→平泉町→花巻市東和町(102km)②

午後、平泉を後にし、花巻市方面へと移動する。
 稲穂が実る田園風景が美しい。
花巻市郊外にある高村光太郎記念館に到着。記念館には高村の『手』など彫像が数点、そのほか書や直筆原稿、身の回りの品々などが展示されている。
彫刻家・詩人の高村光太郎は第二次大戦中にここ花巻市に疎開した。

高村の疎開先は、宮沢賢治の実弟清六の家であり、宮沢賢治の実家だ。高村は1883年生まれ。賢治は1896年生まれで、高村の13歳年下にあたる。高村 は賢治の文学と才能を高く評価しており、賢治もまた、高村の生み出す芸術から多くの影響を受けていたといわれる。そして、明治の文語定型詩から口語自由詩への移行の過程で、高村が文学界に与えた影響は大きかった。

早くして世を去った賢治の文学全集を世に出したのは草野心平であったが、その顧問格として協力したのが高村であり、装丁や題字も手掛けている。

そうした経緯があり、終戦間近の1945年5月、東京のアトリエを空襲で失った高村を呼び寄せたのが、花巻に住む賢治の弟であったわけである。

戦後、疎開先であった賢治の実家も空襲で焼失。焼き出された高村は、花巻市郊外にある太田村山口のあばら家で、7年もの間、独居生活をした。
会館に隣接する「高村山荘」は、高村の独居生活当時の住居が、外側に2層の家屋で包み込む形で保存されている。
独居生活を送る高村は、自らが住むところの敗戦直後の農村で、一種の「農村文化運動」を起こそうと夢見たようだ。私生活においては、地元の教育関係者や農民達に慕われていたようであり、それは現在の「山荘」が、農民が自発的に持ち寄った木材によって、覆うように丁寧に保存されていることからも窺い知れる。
戦時中、戦争翼賛の詩を多く書いた高村は、戦争に加担したという自責の念から、戦後このあばら家で、晴耕雨読といえば聞こえはいいが、厳しい北国での修行のような生活を送った。
そして、自らは何よりも彫刻家であると自認した彫刻・彫像の製作を、唯一残される「野兎の首ブロンズ像」を例外として、この時期はほぼ完全に封印しており、『典型』などの詩集や多くの書によって、当時の彼の精神の一端に触れることができる。
独居生活の開始から7年後、青森県から十和田湖の記念碑制作を依頼されたことを契機にして、高村は東京に戻り、有名な「乙女の像」を完成させる。彼が73歳で死去したのはその4年後だ。

『火星が出てゐる』など高村の詩には比較的親しんできたので、記念館と山荘を訪問することができて嬉しい。
今度は、雪深い冬に足を運んでみたい。
本日の道の駅は、花巻市郊外にある「とうわ」。
隣には「東和温泉♨️」もある。(Y)

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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