朝一番に、田老地区の高台から田老湾をのぞむ。
左側に見えるのがたろう観光ホテル。
高台移転した居住区を見てから、2泊した道の駅をあとにし、宮古市の中心部を抜けていく。
途中、国道45号のすぐ海側は防潮堤が延々と続いている。
三陸沿岸道路が部分的に開通しており、かなり高い位置を、海岸を遠くに見下ろしながら走っていく。
牡蠣の養殖を行っている山田町の漁場を過ぎ、大槌町に行く。
半島を挟んで手前が船越湾。
井上ひさし『吉里吉里人』の由来となった吉里吉里地区は、この船越湾に面する地区である。
半島の奥は大槌湾で、町役場などがある町方地区が面している。
町方地区に下りていくと、巨大な防潮堤の建設現場が真っ先に目に入る。
このあたりは平均で2.2mのかさ上げを行い、新たに宅地を造成した。
徐々に新しい住宅が増える中で、まだまだ空き地も目立つ。
一方で、高台移転を決めた地区もあるという。
震災当日に当時の町長と職員の計40人が犠牲となった旧町役場の遺構は、津波の恐ろしさを今に伝えている。
この建物を残すかどうかについては随分と議論がなされたようだが、今年の3月の町議会において解体することが決定している。
旧町役場の隣には復興拠点施設として、「大槌町文化交流センター」がこの4月にオープンしたばかりだ。
2階には展示室があり、大槌町の各地区の当時の被災状況を、タブレットを使って動画で閲覧できるようになっている。
3階は図書館で、岩手県や大槌町の郷土資料や震災関連資料と並んで、大槌町や釜石市にゆかりのある井上ひさしの著作コーナーも設けられていた。
次に、隣の釜石市に移動。
丘の上にそびえる「鉄の歴史館」を見学。
釜石市は日本が西洋製鉄技術を導入する基礎を築いた町であり、現在は新日鉄住金の釜石製鉄所の所在地だ。展示と映像で、原始的な「たたら製鉄」から先進的な自動車用高強度鋼板まで、日本の製鉄技術発展の歴史を紹介している。
日本の近代製鉄の父といわれ、西洋の製鉄技術を日本に移転したのは、盛岡藩出身の大島高任であった。興味深かったのは、幕末の名君といわれた水戸藩の徳川斉昭が、この大島に命じて那珂湊に反射炉を建設させていた、という事実である。
実際には、大砲の製造には成功したものの、砂鉄を原料に用いていたため強度が弱く、西洋式の大
砲には太刀打ちできなかったらしい。(Y)
この館では、釜石市の復興対策についても触れている。
釜石は防波堤を再構築することで市街地を守り、居住地区も移転やかさ上げといった対策を取らず、元の場所に再構築するという。
これはコミュニティの分断を避けることや、インフラや生活環境の整備を考慮しての対策ということのようだ。(K)
さて、車は大船渡市まで走り、道の駅「さんりく」に到着。
さほど広くはない駐車場はほとんど満杯。
なんとか車を止め、ここの食堂で昼食。人気の食堂で随分と待って、海鮮塩ラーメンとネギトロ丼のセットを食べる。
ホタテが大きくて、甘い。(Y)
この先、他に宿営地となる候補も見つからず、多少喧騒が気になるが、この道の駅で宿泊することに。
夕方を過ぎると、なんとかピークも過ぎたようで、落ち着いた雰囲気に。
この道の駅には、こども専用のトイレルームがあったり、男性用トイレの中にもオムツ替えのベッドが設置されていたりして、子育て世代に優しい。
また、釣りエサ専用自動販売機もあり、何かとホットな話題満載の道の駅である。(K)
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