さて、またまた健さんゆかりの地にやって参りました。
網走番外地の舞台、網走監獄です。
実は、K Y夫婦はこの映画を観た事がない。
でも、この映画を観終わると、みんな肩で風を切って劇場を後にする、という逸話は知っています。
映画のヒットで、ここには極悪犯ばかりが収容されているようなイメージですが、現在は そんな事はないそうで。
歴史的には、明治初期の北海道開拓に遡ります。
当時、政府は、ロシアの北海道侵攻を恐れていました(アイヌ問題は解決済と考えていたのでしょう。侵攻した者が、別な侵攻を恐れた事になりますね)。
明治23年(1890年)、政府は北の防衛を固める為に北海道の原野を切り開き、中央道を通すことに決め、その作業の担い手として受刑者を利用しようと考えたんだそう。
当時の受刑者の多くは反政府活動を行う国事犯や政治犯。
−20度の極寒の地での土木作業。
今のような防寒具も、重機も、工具もない時代です。
わずか1年間で、網走から北見峠まで約160kmを開通させたというから驚きです。
中央政府の決定した期限内に完成させなければと、今、まさに問題となっている時間外労働も横行していたそうな。
当然、怪我や栄養失調で次々と倒れ、死者は監視役も含め、200人以上に上ったといいます。
開始から4年後の明治27年(1894年)に、ついに社会問題となり「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と、国会で追及され、このような労働を受刑者に課す事はなくなったということです。
政治犯を過酷な環境下に置き重労働を課す。
シベリア抑留者といい、某国の脱国者と今い、時の為政者の考えることは何処も同じ。
昨日生誕記念日を迎えていた南アフリカの故ネルソン・マンデラさんは、獄中生活時にロベン島で岩のり取りをしていたらしいけど。
ちなみに、この網走監獄は、現在の網走刑務所ではありません。
別な場所に現役の建物が存在しています。
ここでは網走監獄の今に至るまでの歴史、刑務所内の生活全般、刑期が決定するまでの行程などを、模型や人形を所々に配置して、具体的にわかりやく解説しています。
見学には2時間は必要ですが、見応えのある内容となっています。
社会見学に、是非取り入れて見てくださいね。
そして、この日落ち着いた先は、道の駅「流氷街道網走」。
ここでも、羅臼同様 旅行客に対するゴミ問題に、きちんと取り組んでいました。
海外から注目されて、始めて気づくゴミ問題。
ということですかね⁈
0コメント