今日は、富山の老舗薬品メーカー・廣貫堂さんの「廣貫堂資料館」を見学させていただく。
先日(6月18日)に「富山売薬資料館」を見学し、富山の置き薬のシステムとその歴史については学習済みなので、今回は、さらにピンポイントで、富山を代表する薬品メーカー「廣貫堂」の歴史秘話を中心に辿ってみたいと思う。
富山市内の中心部に工場の広い敷地があり、その一角にある白塗りの土蔵のような洒落た建物が、観光客向けの資料館になっている。
入場無料の上に、同社の栄養ドリンク「サンリキソV」までプレゼントしていただけるとは、まさに太っ腹な会社である。
おまけの紙風船も、一緒に手渡されると、ついつい宣伝したくなってしまう、というのが人の常。
それでは、さっそく「廣貫堂」誕生の歴史からスタート‼︎
「富山のくすり」の始まり〜1690年 江戸城腹痛事件
富山藩が藩をあげて薬の売薬を推進するきっかけとなったのは、以前も触れた「江戸城腹痛事件」。
江戸城内で三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えた際、富山藩2代目藩主・前田正甫公が携帯していた「反魂丹」を服用させたところ、たちどころに治まったという、富山の薬の名声が全国に広まるきっかけとされる出来事だ。
こうして富山藩は売薬業によって財政基盤を固め、売薬業界をリードしてゆくことになるのである。
富山の配置薬商法
「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴せざる寒村僻地にまで、広く救療の志を貫通せよ」
この正甫公の理念は現代まで受け継がれ、富山の売薬業の基本理念となっているという。
「先用後利」は、先に薬を預けておいて、後から利用した分だけの代金をいただき、新しい薬を補充するというシステム。
この「用を先にし利を後に」という正甫公の理念が反映されたビジネスモデルは、「富山のくすり」ならではの販売手法として、薬の効能と相まり、人々から広く支持され、富山の配置薬は全国へと販路を広げていくことになる。
そして、忘れてはならないのが、「懸場帳」と呼ばれる帳面。
ここには、配置員が配置先にあずけた薬の種類、数、服用高、お得意先の家族構成や健康状態など、さまざまな情報が書き込まれていた。いわば江戸時代の顧客データベースそのもの。
お得意先の情報満載の懸場帳は、それだけで貴重な財産価値を持っていたという。
「懸場帳」には、顧客がどの薬をどれくらい使用したかが細かく書かれているが、こうした個人情報は仕事の用途以外には用いなかった、との注意書きがある。
個人情報の重要性は、今も昔も変わらなかったようだ。
売薬業の礎を築く 〜1765年 「反魂丹役所」を設立
富山の薬売りが日本各地に足を運ぶようになり、「富山のくすり」が全国に広まるに従い、富山藩は、配置員の保護と育成にも力を注ぐようになる。
そして、1765年、六代藩主・利與が、売薬業を管理・統制する「反魂丹役所」を設置し、配置員の身分証明、製薬の指導、懸場帳の整備を始める。
これは、現在の厚生労働省的な役割を負う機関である。
大阪の問屋を通じた原料の仕入れ、富山での薬の製造から販売に至るまで、藩で統一的に管理し、薬の品質維持に万全を期したとされている。
済世救民を志す〜1876年売薬結社「広貫堂」設立
明治に入ると廃藩置県により富山藩はなくなり、藩の機関であった「反魂丹役所」も廃止となる。
当時、100種を超える薬を取り扱っていた富山の売薬業界は、転換期を迎えることに。
明治政府は、医薬業界を国の統制下に置くとともに、富山藩が作り出した従来の漢方売薬のシステムを廃止しようと「売薬規制法」を制定するが、富山の売薬業界は、その動きに対抗。
この富山売薬業最大の危機を乗り越えるべく、富山の売薬業者たちは結集する。
1876年、同業者による自発的な組織化を目指し、富山の薬業振興と発展を目的とする「売薬結社 廣貫堂」を発足させるのである。
売薬の発展と近代化を目指す〜1894年 薬学校の設立
売薬の発展、近代化を目指し、広貫堂をはじめとする売薬業者は、専門知識を持つ人材の育成に力を注ぎ始める。
1894年、薬業教育と配置員養成を目的とした、私立共立薬学校を設立。
1898年、私立富山薬業学校に昇格。
1949年、国立富山大学薬学部として、富山の薬学の最高学府に受け継がれる。
広貫堂は、その後も独自に人材育成の環境づくりを進め、
1939年、社員の知識・教養を高めるため「広貫堂薬学青年学校」を、
1955年、「広貫堂薬学院」を設立し、人材育成に務めている。
高き志しを受け継ぐ「廣貫堂」
「廣貫堂」は漢方を中心とする製薬企業として発展していくが、置き薬による売薬システムも維持され、輸送手段の進歩によりそのスタイルや規模は変わっても、「富山の薬売り」のシステムは現在まで続いている。
ちなみに、廣貫堂の社名は、「医療の仁恵に浴せざる寒村僻地にまで『広』く救療の志を『貫』通せよ」という高邁な思想に由来している。
「どのような事業であれ、その発展の前提には、単なる金儲けではない高い志が必要」という教えがそこにあったのだ。
このような思想に裏付けされた廣貫堂は、まさに富山の製薬業の基礎を築き、富山全体の薬業界をリードしながら、共に発展し続けているのである。
以上、廣貫堂の誕生から現代に至るまでの物語を、ざっと書き記してきたが、館内には沢山の歴史の証人(物品)が顔を揃えている。
まずは、メインゲートから。
売薬人のマネキンがお出迎え。
下は、実際に使用されていた売薬人の行李。
左隣にあるのは、この行李の中に入れられていた物。
行李は、積み重ねると5段になり、その一段一段は、それぞれ用途が決まっていたらしい。
1段目(最上部)は、懸場帳やそろばん、筆記具、財布などの事務用品。
2段目は、お得意様に配るお土産(紙風船や売薬版画など)。
3段目は、有効期限が近づき先方から引き上げてきた薬。
4段目と5段目は、新しく配置する薬。
余分なスペースはない。
人一人が最大限に運べる、効率の良い絶妙なバランス。
昔は今のように事前に必要量を把握することも出来ないので、どの薬をどれくらい持参するかは経験知が重要となるのだろう。
他にも、パッケージデザインや、
置き薬の箱や、
お得意さんへの「おみやげ品」の展示も。
ひと通り、展示物を拝見し終わると、目に飛び込んでくるのは、「富山のくすり」の数々。
レトロで可愛らしいパッケージで、一袋が300円台とお手頃価格。
これを、右端の置き薬用の箱に詰めて購入すれば、「特製お薬箱」の出来上がり。
残念ながら、我々のキャンピングカーには、すでに薬箱が持ち込まれているので、購入は断念。
側には、人気の「ケロリン」シリーズも。これも富山のメーカーの商品なのだそう。
いろいろ展示物を見せていただいた上に、ドリンク剤や紙風船のお土産までと、サービスしてもらったKY夫婦。
これだけの商品を前に、素通りして立ち去るというのも、何となく気がひける。
「何か一つでも購入し、お返しを」と考えるのが人情というもの。
ちょうど昨日当たりから、Yのお腹の調子が今ひとつ。
ということで、相談の結果、「熊膽圓(ゆうたんえん)」を一つ購入する。
家には、常備薬基本、ラッパのマークのお薬があるのだが、最近、どうも刺激が強すぎるということで、ちょうど良かった。
ちなみに、ここにも「サザエさん御一行」が見学に訪れているらしい。
最後に、気になった展示物を、ひとつご紹介。
越中売薬と昆布ロード
漢方薬の原料の多くは中国産であり、大阪を経由して富山にもたらされていたという。
そして、中国人が代わりに求めた商品の一つが昆布であった。
ヨウ素やカリウムを多量に含む昆布は、内陸部が広がる中国では貴重であり、薬の一種とみなされていたのだ。
越中富山は北前船の寄港地であり、北海道の昆布は富山を経由し、密貿易を盛んに行なっていた薩摩を通じて中国大陸に運ばれていた。
面白いことに、そのせいか、現在、富山の昆布消費量は日本一なのだそうである。
そういえば、沖縄や鹿児島あたりの道の駅などで、なぜか日高昆布が売っていて、「なぜ、ここに日高昆布が?」と首をかしげていたことを、ふと思い出した。
日本は島国なので、沖縄や鹿児島や北海道は海路でダイレクトに繋がっていたのだという事実に、改めて感じ入ったKYであった。
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