昨日は一日作業日。
今日は、早めに長野市内へと向かい、善光寺詣からスタートすることに。
早めに到着。
といっても、ここは善光寺。
お寺は朝5時からお参りが出来る。
さっそく寺の周辺で駐車場を探すが、またしても、高さ制限で駐車できず。
塀の周りを一周してみるが、駐車出来そうな場所はない。
仕方がないので、近くの丘の上にある公営駐車へ向かう。
駐車スペースは確保できたものの、かなり遠い感じ。
つい先程、塀越しに見えた塔が、木々の間から、チラリと顔を覗かせている。
おまけに、今日の日差しは真夏並み。
信仰心の薄いKY夫婦は、江戸庶民の思いに触れることなく、あっさりと善光寺詣を諦める。
あ〜、牛に引かれて行きたかったなぁ〜。
かくして、車は長野県庁通りへ。
中心街を抜けて、しばらく千曲市方向に進んで行くと、標識に「川中島古戦場」の文字が。
せっかくなので、信玄と謙信の激戦地の跡に立ち寄ってみることに。
川中島とは、千曲川と犀川に囲まれた広い三角地帯を指す。
ここは、周囲に山々を望み、のどかな光景が広がる田園地帯。
かつて激戦地だったことが想像もつかないほど。
「川中島古戦場史跡公園」は、そのうちの「八幡原」と呼ばれる場所にあり、池やちょっとした林が配置された気持ちの良いところ。
敷地内には八幡神社や、
長野市立博物館がある。
有名な「川中島の戦い」は、1553年から1564年にかけ、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の覇権を巡り、川中島を中心とする地域で5回にわたって戦った一連の戦闘をいう。
もっとも、正確に川中島で戦われたのは第4回の戦いのみ。
厳密には川中島の戦いは第4回のみを指すようだが、最大の激戦が川中島で繰り広げられたことから、一連の戦闘を総称して「川中島の戦い」と呼んでいるらしい。
川中島は古来から肥沃な土地柄で、当時の米の収量は、越後全土のそれを上回っていた。
越後から信州の中央部に抜ける交通の要衝にあり、信濃全土に勢力を及ぼそうとする信玄、雪国・越後から関東に勢力を拡大しようとする謙信にとって、喉から手が出るほど欲しい地域であった。
信玄は謙信と対決するため、この地に海津城(のちの松代城)を築き、城代として高坂弾正を置いていた。
1561年8月から9月にかけ、4回目となる戦いが川中島で繰り広げられた。
両軍は対峙し、膠着状態が続いた。
痺れを切らした信玄に対し、軍師・山本勘助は、「別働隊を組織し、妻女山に布陣する謙信を攻める。
勝敗に関わらず、謙信は妻女山から出てくるから、それを川中島に布陣し迎え撃つ」という「キツツキ戦法」を献策。
ところが、信玄の動きを察知した謙信は、武田軍の動きに先んじて、闇夜に紛れて音を潜め、妻女山から全軍を川中島に移動させる。
翌朝、武田軍が霧の晴れ間から目にしたのは、そこに居るはずもない上杉軍の大軍だった。
不意をつかれた武田軍は劣勢に陥る。
自らの戦法が失敗したことを恥じ、山本勘助はこの戦いで覚悟の戦死を遂げたという。
史跡公園のある八幡原は、当時信玄が本陣を構えており、武田軍の劣勢を見て謙信が馬で切り込み、信玄に太刀を浴びせたという、ここが、まさにその場所である(もっとも、謙信でなく部下の武将だったとする説もある)。
ここは、「三太刀七太刀之跡」という。
信玄に太刀を浴びせようとする謙信と、床几に腰掛け軍配で太刀を防ごうとする信玄の勇ましい銅像がある。
最終的には、この戦いも両者の勝敗は決しなかった。
信玄と謙信の銅像の隣には「首塚」がある。
信玄方の高坂弾正が、戦死した兵士たちを敵味方問わず丁重に葬ったことを示す石碑である。
言い伝えでは、
「このことを知り感激した謙信は、のちに塩不足に苦しむ甲斐の民衆に塩を送り、この恩に報いた」とされ、ここから『敵に塩を送る』という故事が生まれたとされているが……。
史実としては、いささか誤りがあるらしい。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、武田信玄は直ちに今川家を見限り、当時締結していた武田・北条・今川による「甲相駿三国同盟」を破棄し、さらに今川領駿河に攻め入る。
これに激怒した今川は、武田に対し「塩止め」を実施。
塩を駿河湾を所有する今川に頼っていた武田は困窮する。
塩がなければ生きてはゆけぬ。食料を保存することもできない。
このままでは武田家のみならず、甲斐や信濃の民までも苦しむことになると、信玄は対応に苦慮する。
ここまでは伝説の通り。
ここからが史実とされるところ。
この窮状を知った上杉謙信は、川中島で鎬を削っていた武田信玄に対し、日本海産の塩を確かに送った。しかし、この時、謙信は塩をプレゼントしたわけではなかった。
謙信は越後の塩商人を甲斐に送り、通常よりも高い価で塩を売った、というのが真相なのだそうだ。
謙信は武将としてのみならず、商業面でも優れた才覚を発揮したとされる人物。
「謙信の義の象徴」として語り継がれてきた美談が、謙信の商魂によるものだったとは‼︎
この地で故事「敵に塩を送る」と出会った喜びもつかの間。
こんな実話、知らぬ方がよかったかも。
敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境から救う。
まあ、確かに、塩の流通が滞らなかったおかげで、助かったことには違いないし、
「敵に塩を送る」の「送る」も、プレゼントの「贈る」ではなく、「運ぶ」の意味と捉えれば、確かにおかしくはないし、プレゼントしなければならない理由もないが……。
っていうか、そもそも、本当に高値で売ったとしたら、敵の足元見て、しっかり弱みにつけこんでることになるんじゃなかろうか⁈
さて、気を取り直し、古戦場散策へ。
すると、またまた見覚えのあるお方の名前が‼︎
十六夜も また 更科の郡かな はせを
そう。あの、伝説の「はせを」さん‼︎
善光寺詣での途中立ち寄ったのか、芭蕉の足跡👣を発見し、喜び勇むKY夫婦であった。
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