6月2日 安曇野市 → 中野市[高野辰之記念館]→ 信濃町[小林一茶記念館]→ 小布施町(141km)②


次に、中野市の隣の信濃町まで移動し、「小林一茶記念館」を見学。

信濃町に入り、国道18号を北に走っていると、右前方に残雪を抱いた山峰が一際目を引く。


これが妙高山(2454m)で、その向こうは新潟県である。

このあたりは、かつて「北国街道」と呼ばれ、一茶記念館の周辺が柏原という宿場町であった。

佐渡からの金や銀、海岸で産出する塩などをはじめとして、物資の輸送路として大変賑わり、諸大名の参勤交代の宿場としても重要だった。

一茶記念館の駐車場からは、正面にどっしりとした黒姫山(2053m)が望まれる。


さすがに芭蕉・蕪村と並ぶ俳人の一茶だけあって、記念館も立派な建物だ。

記念館では、展示の解説用にタブレットを無料で貸し出している。

解説は、2017年撮影の映画『一茶』で主演を務めたリリー・フランキーのナレーションによるもの。

職員の方も強く勧めるので、首からタブレットを下げて展示室に入る。


【俳人 小林一茶の生涯】


《幼くして母を失い、奉公に出される》


1763年、長野県北部、北国街道柏原宿の農家の長男として生を受ける。

                中農てあった父親は少々学問も嗜んだらしく、当時としては悪くな
                い出自。

1766年、母が他界。(一茶3歳)

1771年、義母を迎える。(一茶8歳)

1778年、働き者だが気の強い継母とは折り合いが合わず。

                継母と引き離すため、江戸に奉公に出される。(一茶15歳)

                中農の長男が奉公に出されるのは、当時としては極めて珍しい。


われと来て 遊べや親の ない雀


                一茶は奉公先を点々とかえてゆく。

1783年、この頃、俳句の道をめざすようになる。(一茶20歳)

                葛飾派の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事。

1792年、14年ぶりに故郷に帰り、「寛政三年紀行」を記す。(一茶29歳)

1793年〜99年、関西・四国・九州の俳句修行の旅。

               句集「たびしうゐ」「さらば笠」を出版。(一茶30歳~36歳)

1802年、父親の看病で帰郷したが、一ヶ月ほどで他界。(一茶39歳)

               「一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるように」と遺言。
 
               このときの様子が、「父の終焉日記」に 記される。


《義母、義弟と遺産相続で10年間争う》


この後、およそ10年に渡り、継母・弟との間で財産争いが続く。

父の死後、小林家の田畑は継母と弟の働きにより規模も大きくなっていた。

父親は「一茶と折半するよう」枕元の一茶に言い残していたが、継母と弟の立場からすれば、今の地産は自分たちの働きによるものだと考えたのも一理ある。


その頃の一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方で、俳人としての名を全国に知らしめ、房総半島を中心に俳諧指導で回りながら生計を立てていた。


俳諧という好きなことだけをやって生きていくのは、金銭的には恵まれずとも、それはそれで幸せなことである。


《遺産交渉も、ようやく和解に》


1812年、相続争いに目処が立ち、北信濃・柏原に帰郷。(一茶49歳)

               歳を重ねるうちに、生まれ故郷が恋しくなったのだろうか。

               50と言えば当時としては晩年。

               終の住処を得たいと考えるのも無理はない。


               そのころ、詠んだとされるのが、この句である。


是れがまあ ついの栖か 雪五尺



               この頃一茶は、北信濃の門人達に俳諧指導し、生計を立てていた。


《一茶、家庭を持つも運に恵まれず》


1814年、知人の口利きで菊(28歳)と結婚。(一茶51歳)

               子宝にも恵まれるものの、長男千太郎、長女さとが相次いで他界。


               翌年の元旦に詠んだのが、この句。


目出度さも  ちう位也  おらが春


1819年、正月を迎えたが、心からめでたいという気持ちにはなれない。
              (一茶56歳)
               
               その後、次男石太郎、三男金三郎を授かったが、いずれも夭折。

1823年、10年間連れ添った妻・菊が37歳で病死。(一茶60歳)

                あれこれ考えたところでどうにもならない。

                この年の暮れも、すべてを仏さまにお任せするよりほかにない。


ともかくも あなたまかせの 年の暮


 
                 その後、二度目の妻と数ヶ月で離婚。

1827年春、三度目の妻やをを迎えるが、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇。

                   母屋を失い、焼け残りの土蔵に移り住む。


やけ土の   ほかりほかりや   蚤さわぐ


花の陰   寝まじ未来が   おそろしき


                   とは、どちらも、この時期の一茶の句。


1827年冬、65歳の生涯をとじる。

                   死後、妻の懐妊が発覚。我が子の存在を知らぬまま旅立つ。



一茶の生涯は、最後まで波乱に満ちていた。


その娘は、一茶の子供として初めて成人(47歳)まで生き、一茶の家系を残した。


家庭的には恵まれなかった一茶だったが、晩年は北信濃の門人を訪ね、俳句指導や出版活動を行い、「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、「おらが春」などを著している。


生涯で約2万句も詠んだというから、かなりの多作であった。




記念館脇にある、一茶像。


この裏手には、小林家代々の墓がある。

周囲には地元の方々の墓が並んでいるが、その中央部分に建つこの墓は、驚くほど小さく見える。

そのすぐ隣に、墓とは対照的に長い石碑が建てられているが、

これは墓が雪に埋もれ、場所が分からなくならないよう建てているらしい。



博物館をあとにし、一茶が最期の時を過ごした土蔵を見学。 



ここに来て、一茶が父親から相続した屋敷を弟と分け、二つに仕切って暮らしていたことを知る。

結構、シビアな財産分けであったようだが、安住の地を得た幸せを噛み締める一茶の想いに触れた気がした。



信州北部は、故郷の原風景が残る場所。

この地で育まれた人々が生み出した、詩や歌、俳句の数々に触れた、文学、芸術三昧の一日であった。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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