GW明けの初日の朝、今日も晴天である。
これから佐賀市方面に移動する予定だが、ちょっとその前に、「呼子の朝市」に行くことに。
唐津に来てから、このポスターが、ずっと気になっていた。
呼子港では、「日本四大朝市」のひとつといわれる「呼子の朝市」が毎朝開催されているという。
呼子といえばイカが有名。
この周辺では、「イカの踊り食い」、「イカの一夜干し」といった看板が、そこかしこに掛かっていて、気になって気になって仕方なかったのだ。
どうせ食べるなら、朝市で新鮮なイカを食すのが一番に決まっている、とKY一行は勇んで港へと向かったのであった。
呼子港に到着し、下調べしておいた市営駐車場に車を停めようとするが、例によって高さ制限の庇にぶつかって入れない。
困っていると、駐車場管理の男性が近寄って来て、隣の観光バス用のスペースへと案内される。
「一時間ぐらいなら200円でいいよ」ということで、一件落着。
駐車場のおじさんによると、この朝市は年中無休で、毎朝欠かさず開催し続けているという話。
ここは、かつて捕鯨で財を成した親方の屋敷跡周辺の通りが朝市会場となっており、数百メートルに渡る細長い路地の商店街に、おばちゃん達の屋台が並んでいる……はず。
今は朝9時過ぎ。
朝市開始時間も30分ほど経過したというのに、観光客がパラパラと見られるものの、出店もまばらで、思ったよりも賑わってはいない印象。
昨日の夕方、この前を通りかかった時は、駐車場には沢山の誘導員がいて賑わっていたのに……。
GW明けだと、こんなものなのかも知れない。
やはり、どの店でも「イカの一夜干し」が売られていて、風車のようにクルクルと回す独特の方法で干されている。
【訂正】
関係筋の方から、「クルクル回すのは蝿が付かないようにする為である」とのご指摘をいただきました。
3枚1000円ほど。
食べたいのは山々だが、キャンピングカーの中で炙ると臭いがつきそうなので、諦めた。
お目当ての「イカの踊り食い」はといえば、これはランチタイムから、ということで味わえず。
代わりといっては何だが、店頭で揚げ物を売っているおばちやんが、揚げたてを食べさせてくれるというので、「イカのすり身コロッケ」を注文。
アツアツで美味しかったが、あまりイカを食べている感じはしなかった。
最後に、おばちゃんの店で新鮮なイカを使用した塩辛などのイカの加工品を購入し、お茶を濁す。
結局、お目当ての「イカ料理」にはご縁のないまま、佐賀市方面へと移動する。
記念に、車窓から唐津港方面を望む風景をパチリ。
佐賀市までの道のりでは、広大なパークゴルフ場がある、リゾート地のような丘陵地や、干上がったダムの横をを通り過ぎる。
温泉もいくつかあり、スキー場の表示もあった。
佐賀県は比較的内陸の気候らしく、九州の中では寒く、降雪がある地域のようだ。
しばらくして、ようやく佐賀市の市街地に入る。
紳士服の青山、メガネスーパー、ヤマダ電機、マクドナルド等の看板が並ぶ道路が見え始めれば、直ぐに中心地が現れる。
どこの町でも変わらない、日本全国お馴染みの構図である。
一行は、佐賀市中心部にある佐賀城址を目指し、無料の駐車スペースを確保。
駐車場の脇には、第10代佐賀藩主・鍋島直正公のたいそう立派な銅像が建っている。
一服して落ち着いたところで、「佐賀城本丸歴史館」を見学することに。
大手門から城内に入ると、
本丸御殿が歴史館となっていた。
ここは、佐賀県の幕末から近代にかけての歴史を紹介する施設。
佐賀城の主な建造物は、明治初期の江藤新平らが率いる佐賀の乱で、反乱軍が一時立て篭もったことから大部分が焼失してしまったという。
その後、師範学校や商業学校、小学校などの敷地として用いられたが、現在では、天保年間の本丸御殿が再現され、この歴史館になっている。
ここは靴を脱いでスリッパで入館となる。
廊下は全て畳敷き。
一風変わった珍しい雰囲気の施設である。
ちなみに入場は無料だが、任意の募金制になっている。
長くて幅のある廊下を歩いていると、つい松の廊下を歩いているような気分。
「殿中でござる‼︎」と、思わずお決まりの寸劇を始めてしまいそうになるが、グッとこらえる。
しばらく廊下を進むと襖が開いている部屋が。
そして、床の間の前に、突然現れた10代藩主・鍋島直正公。
隣に座布団が置かれているのは、「ここに座れという意味だ」とY。
半信半疑で、一緒に記念撮影。
お疲れのご様子なので、
ついでに、肩など揉ませていただく。
それにしても、なぜ?
佐賀藩では、この藩主だけが、これだけクローズアップされているのだろうか。
その謎は、すぐに解けた。
幕末の佐賀藩は、日本で最高の科学技術を有する藩であった。
そして、全てはこの名君・鍋島直正から始まったのである。
鍋島直正の、ここが凄い‼︎
《17歳で佐賀10代藩主》
1830年、父の隠居を受け、17歳で藩主となる。
《窮乏した財政を再建〜藩政改革》
当時、佐賀藩は厳しい財政難の危機にあった。
《弘道館の拡張〜「佐賀七賢人」を育成》
直正は藩校・弘道館を拡充し、多くの人材の育成につとめる。
こうして育った若者の中に、明治に入って政府や民間で活躍する「佐賀の七賢人」がいる。
七賢人とは、当主・鍋島直正を筆頭に、
外務大臣として条約改正に取り組み、早稲田大学を創設した大隈重信
新政府では初代司法卿となり、司法独立の基礎を築いた江藤新平
「日本赤十字社」初代社長となった佐野常民
北海道の開拓を行い、今日の札幌の基礎を築いた島義勇
外務卿としてロシアと交渉し、「日清修好条規」に取り組んだ副島種臣
初代文部卿となり、「学制」を領布して明治教育の大綱を作った大木喬任 のこと。
こうした佐賀藩の人材は、明治維新における薩長土肥の一角を占め、明治政府においても多くの要人を輩出することとなる。
《長崎警備の強化〜台場の設置》
佐賀藩にとって特徴的なのは、この藩と福岡藩が交代で、幕府の直轄地だった長崎の警備を任されていたことである。
これも藩の財政を大きく圧迫したが、その反面、佐賀藩が当時の最新の科学技術に触れる機会を持つことにも繋がっていった。
《科学技術を研究開発部門「精錬方」を設置》
科学技術を研究開発する「精錬方」という部署を新たに設立し、佐野常民を主任に据え、藩外からも多くの技術者を招聘した。
《築地、多布施に反射炉》
1850年、佐賀藩は「日本最初の反射炉の建造(築地反射炉)」を建造。
この反射炉を使い、日本で最初に大砲の建造に成功している。
そして、海防の重要性を感じた江戸幕府は、佐賀藩に50門の大砲を発注したとされている。
大量の鉄の製造に必要な反射炉は、韮山代官・江川英龍による「韮山反射炉」の方がよく知られている。これは、こちらが唯一現存する反射炉だからであろう。
しかし、佐賀の築地反射炉建設は韮山よりも7年も早く、韮山反射炉の建設にあたり、佐賀藩は技術協力を行なっていたという。
《洋式軍隊を組織〜蒸気船を建造》
藩主・直正は、自ら西洋の船に乗り込み、命がけの視察を断行する。
この後、藩の技術者に蒸気機関の原理を習得させ、短期間のうちに蒸気船を建造してしまう。
これは、当時の日本人の学習能力の高さを示すもの、とも言えるが、とにかく当時の佐賀藩は、他の藩の追従を許さない技術力を有していたのである。
《医学寮、蘭学寮の創設》
1834年、直正は医学館を創設。この医学館は後に直正により「好生館」と名付けられ、その歴史と精神は180年以上たった今でも受け継がれている。
1851年、佐賀藩では全国に先駆け、「医師免許発行制度」を導入。
医学寮で学び、試験に合格した医師に「免札」を与えた。
また、同年、「蘭学寮」が付設され、防衛のための技術研究が行われた。
《英学研究》
直正は藩内の有能な若者たちを、長崎に派遣し、蘭学や語学を学ばせた。
《天然痘の根絶》
天然痘の種痘を、日本で最初に行ったのも佐賀藩だった。
当時、佐賀藩内で大流行していた天然痘は、不治の病として恐れられていた。
直正は天然痘のワクチンをオランダから取り寄せ、当時4歳だった息子の淳一郎(後の11代藩主・直大)に接種させた上で安全性を確認し、これを大阪の緒方洪庵にも分け与えた。
こうして、ワクチン接種大阪や江戸にも伝わり、全国的に普及し、日本国内における天然痘を根絶に導いたという。
こうして幕末の佐賀藩は、若き10代藩主・鍋島直正が発揮したリーダーシップにより、時代の先駆けをゆく、押しも押されもせぬ雄藩となっていったのである。
おまけとして、戊辰戦争について記しておくと、
戊辰戦争では、直正は最後まで「佐幕か、倒幕か」の態度を明らかにしなかったらしい。
佐賀藩は、最終的には官軍方につく。
直正は時勢を正確に読んでいた。
直正の周囲の人たちは、藩主の考えを最後まで押し量れなかったそうだ。
ここに記すまでもないが、明治維新後に起こった「佐賀の乱」においては、江藤新平や島義勇ら多くの有為な人材を失っている。
これは、新政府にとっても、大きな痛手であったに違いない。
最後に、一つ。
《佐賀藩発祥の『葉隠』》
佐賀藩といえば、江戸時代の武士の心得を表した『葉隠』発祥の地。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一説で有名な『葉隠』は、佐賀藩士・山本常朝によって口述されたもので、弘道館でも教えられたという。
佐賀県は、人口・面積ともに全国で42番目という小さい県ではあるが、佐賀藩の近代日本における位置付けを考えると、決して侮ってはならない県なのである。
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