Yの喉の調子は今ひとつだが、マスク着用であれば、なんとか人混みに出ても差し支えないであろうという事で、今日は久々に外出。沖縄本島の南側にある「ひめゆりの塔」に行くことに。
まずは、「ひめゆりの塔」入り口周辺の無料駐車場に車を止め、レストランで腹ごしらえ。
この辺り一帯は私営地とあってか、賑やかなお土産さんが連なる。
入り口には、献花用の花が並べられている売店があり、そこで花を買って献花するというのが自然の流れとなる。
観光地化したドライブインのような土産物屋さんに囲まれたエリアの中心に、「ひめゆりの塔」が、ひっそりと佇むという構図に、どことなく違和感を覚えたのは我々だけであろうか。
「ひめゆりの塔」は言うまでもなく、沖縄女子師範学校と沖縄第一高等女学校(両者は併設校だった)の女学生と教員で編成された、「ひめゆり学徒隊」の戦没者の慰霊碑だ。
ここに、整然と花を並べ、献花を行い、静かに手を合わせる。
塔の隣には「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」がある。
この「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟には簡易ベッドが並べられ、野戦病院として使用されており、多い時には100名ほどが、この洞窟の中で生活を共にしていたという。
この洞窟では、1945年6月19日の連合国軍によるガス弾により、ここに避難していた民間人を含む約80名が殺害されたとされている。
この洞窟で亡くなられた方々の嘆き、悲しみを思うと足取りも重い。
ガマの後方には「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
沖縄戦で「学徒隊」として動員された学校は、「ひめゆり学徒隊」の2校を含む21校。
そのうち、女学生が動員されたのは10校。その中でも、「ひめゆり学徒隊」が特に有名なのは、動員数240名、うち戦死者数136名と一際多かったからだろう。彼女たちの悲劇は過去に何度も映画化されている。
ここでは、「ひめゆり学徒隊」に動員された女学生たちの学生生活や看護隊員としての過酷な生活、生存者の貴重な証言などがビデオ上映され、活字としても展示されていた。
戦争というものの実態を知らず、初めはお国のために少しでも役立てればと、嬉々として荷物を運んだり、肉体労働に励んでいたが、日を追うごとに状況が変化し、生死を分ける戦いの渦の中に巻き込まれていってしまった。
1945年6月18日 夜半、突然、ひめゆり学徒隊に対し、軍部から解散命令が下され、「後は各々の判断で行動するように」との通達を受ける。
アメリカ軍に包囲され、戦禍の中、散り散りになって逃げ惑う姿を想像するだけで胸が苦しくなる。
沖縄戦で戦死した学徒、教員合わせて1,018名。
動員された学生の半数が犠牲となったことになる。
あと2ヶ月生き延びることが出来れば。
天皇陛下が、あと2ヶ月早く敗戦を認めていたら……。
そう思うとやりきれない。
今日は、さらに車を走らせ、「平和祈念公園」まで行くつもりだつたが、今日は駐車場に辿り着くとヘトヘトになり、車を停めて休憩だけして帰ることに。
一日で、この二ヶ所の見学は重い……。
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