11月21日 富士吉田市→ 山中湖村[三島由紀夫文学館]→富士吉田市(37km)


今日は、午後から「山中湖文学の森公園」にある「三島由紀夫文学館」に行くことに。



道中、富士吉田市の市街地や山中湖湖畔からは、新雪をまとった富士山が輝きを帯び、銀で縁取りされたようにくっきりと望まれる。




山中湖文学の森公園には、三島由紀夫文学館以外にも、山中湖ゆかりの文人や歌人など詩歌の句碑や、徳富蘇峰館がある。


近代日本のジャーナリズムの巨頭、徳富蘇峰は、自らが育てた『国民新聞』を離れた後20年余りの間、山中湖湖畔で執筆活動に励んでいた。徳富蘇峰館には、直筆原稿や絵画、掛け軸など150点が展示されている。


柔らかな日差しが木々の間から差し込む中に、その建物「三島由紀夫文学館」はあった。



三島自身と山中湖には特別の関係はないらしいが、公的機関での遺品の保管・利用を希望していた遺族側と、「文学の森公園」運営を希望していた山中湖村との意向が合致したことから、1999年(平成11年)7月3日、ここに三島由紀夫唯一の文学館が誕生したという。

故人の遺言では、「自宅を三島由紀夫記念館として欲しい」としていたようだが、その願いは叶わなかったようだ。

一階では、初版本99冊、直筆原稿、創作・取材ノート、書簡、絵画、写真資料、翻訳書、映画・演劇資料などを展示。自宅にあった三島の書斎の一部を再現したコーナーや、映像室もある。
二階には閲覧室、研修室もあり、収蔵図書、雑誌、紀要などが閲覧できるらしいが、全体としては小ぶりな方だろう。


他に、今年の春 フランスで「三島由紀夫と『金閣寺』」展が開催され、その凱旋展示として「美と孤独〜帰ってきた『金閣寺』」と題した特別展示もあった。

『金閣寺』は世界各国語で翻訳され、映画や演劇、オペラにまでなっている。


三島の直筆原稿を見ると、几帳面な読みやすい字で書かれてある。日頃から編集者の負担を軽くするよう心掛けていたらしい。サインの文字も然り。


映像室では、作品を通して三島の生涯を辿る『世界の文豪・三島由紀夫』が上映されており、第一部「三島由紀夫の生涯と作品」、第ニ部「豊饒の海」で、およそ一時間ほどで、見応えのある内容であった。

デビュー作の『花ざかりの森』から、私小説的内容で衝撃を与えた『仮面の告白』、古代ギリシャの恋愛物語を下敷きにしたといわれている『潮騒』、実際の放火事件を題材にした『金閣寺』、地球の終末をテーマにした珍しいSF物である『美しい星』、最大の男性的権威であり滅びゆくものとしての「父親の問題」を描いた『午後の曳航』や『絹と明察』、最後の長編『豊饒の海』まで、三島の代表作の一部を、三島自身の肉声を交えながら紹介している。

三島は、少年期から能や歌舞伎に親しみ、自ら劇評も書いており、能の謡曲を近代劇に翻案した『近代能楽集』などの傑作もある。

「自分は日本文化を熟知した最後の作家となるだろう。」そして、「これからの世界は言葉は違っても、どこも似たような生活スタイルになる。そんな世界に自分は生きていたいとは思わない。」

三島は館内のビデオの中で、そのような主旨の肉声を残していた。グローバル化が当たり前のようになっている今の社会を、彼ならどのように見るだろうか。


最後に、三島邸の中庭から移築されたアポロン像を写真に納め、三島由紀夫会館の記念冊子を購入する。


会館を出て、一日の用事を済ませ、昨日と同じ宿泊地の駐車場に戻ってからも、ずっと三島の自決に至る心境は、いかなるものであったのかが気にかかる。


ネット検索を頼りに、三島由紀夫という人間を考察してみる。


【他者が見た三島由紀夫像】

◆自身が作り上げた主人公になりきる習性がある。

『禁色』を書く前の三島は男色の世界に入り浸り、
『美しい星』を書いていた頃の三島は、宇宙人になりかかり、肩から毛布みたいなものを巻きつけ、自分でデザインした奇妙な帽子をかぶっていたらしい。


◆凛々しく、潔く、清く、正しく、優しく、思いやりがあり、親孝行であった

『日本少年』や『少年倶楽部』を読んで育った三島は、少年倶楽部のモラル「凛々しく、潔く、清く、正しく、優しく、思いやりがあり、親孝行」を、そのまま持ち続けていた。(友人の証言)





【三島の死生観】

◆徴兵検査時に遺書を書く

軍医の誤診で兵隊から即日帰郷でかえされてきて、そのときに遺書を書きました。天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いつまでもぼくの内部に生きているんです。(中略)ぼくは、あれから逃げられない。(事件一週間前)


◆死を飼って生きてきた

戦前の若者が、なぜ死なねばならなかったのか、何のために命を投げ出したのかに答える、という約束である。だから私の人生は、つねに死を飼って生きてきた。最初は戦争で、2度目は多くの友人が死に、そして3度目は戦後を生き延びた「老い」の感覚によって。


◆死に際の美学を追求

自衛隊で事件を起こす直前になって、自身の背中に唐獅子牡丹の刺青を彫ろうと試みるが、間に合わず断念する。
帯刀する日本刀を一本にするかニ本にするかで議論し、一本にしたほうが美しいと結論に達す。


◆武人として死にたい

僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた。(ドナルド・キーン宛の最期の手紙)


【両親が考察する三島自決の原因について】

三島の父・梓は、三島に父方の郷里・岡山で徴兵検査を受けさせ、醤油を大量に飲ませて徴兵逃れを画策。狙い通り検査に落ちた親子は抱き合って喜んだものの、三島は複雑な顔をしていたという。「その後ろめたさからか、戦後必要以上に天皇制万歳の右翼的な言動をするようになったのだろう」と分析している。

一方、母・倭文重は、「今度初めて、本当にやりたかったことができたのだから、その意味では男子の本懐を遂げたことになる」と述べる一方、三島の生涯で二つだけ叶わなかったこととして、一つ目にノーベル賞をもらえなかったことを挙げている。

父・梓によると、ノーベル賞決定前に川端康成が三島邸を訪れ、「自分ではなく、川端康成にノーベル賞をあけてほしい」という趣旨の(ノーベル賞選考委員への)手紙にサインをするよう求められ、それに応じてしまったと両親の前で嘆いたという。

それでも、三島はノーベル文学賞は自分が受賞するものと信じ、授賞式用の礼服まで調達していたが、川端康成に決定してしまった。「この賞が次に日本人に贈られるのは、少なくとも10年先」と三島は落胆し、友人や身内の前ではひどく悔しがり、川端の事を恨んでもいたそうだ。

そして、二つ目は 本命の人と結婚できなかったという結婚。
「お見合いをして不成立の縁談で、相手は(現・皇后陛下の)正田美智子さん。
時とともに意中の人として消えがたくなっていったようで、もし美智子さんと出会っていなければ、『豊饒の海』は書かなかっただろうし、自決することもなかっただろう」と語っている。


【楯の会の決起】

昨年(2017年)、1968年に三島由紀夫が設立した民間防衛組織「楯の会」の公式ホームページ(「三島森田事務所 旧・楯の会 オフィシャルサイト」)が開設された。



ここでは、楯の会の決起について
「日本人にとり、日本とは何か、文化伝統を守り、国を思うとはどういうことかと、戦後の精神的に弛緩した風潮に対し刃を突きつけた」としている。

日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はない。

この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であること。

しかし、三島は「知識人とは、あらゆるconformityに疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないか」と考へた。 

経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死に、自分の信念を守るために命を賭けるといふ考へは、Old-fashionedになってしまった。

日本ではあらゆる言葉が軽くなり、一つの概念が別の概念を隠すために用ひられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになり、あらゆる言葉には偽善がしみ入っている。

日本は、軍事学上の「間接侵略」状態にあり、表面的には、外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦 が繰り広げられ、本質的には、日本といふ国のIdentityを犯さうとしていると感じていた。

こうした日本の戦後の偽善に辟易し、思想を守るには命を賭けねばならぬとして、三島は「日本に消えかけている武士の魂の焔をかき立てるため」、自分一人で民兵を作ってみせると広言。それが「楯の会」の起りであった。


【三島事件(楯の会事件)を起こすまで】

1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後、割腹自殺を図る。



その4ヶ月ほど前、1970年(昭和45年)7月7日、産経新聞に掲載された随想『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』の中で、三島由紀夫はこう記している。

 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。

 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。

 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。

 この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。

 なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。

 この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。

   それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。

 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。

(中略)

 二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

そして、市谷陸上自衛隊東部方面総監部バルコニーにて、中庭に集められた自衛官(800〜1000名)に向かって、肉声による檄を飛ばす。


【檄 三島由紀夫】(以下、抜粋)

われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。

政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。

自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限り尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。

国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規則に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。


「七生報国」七回生まれ変わっても国を護る

政府は政体維持のためには、何ら憲法の抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。

銘記せよ!

実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだった。

われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。

しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。

沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけに行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。

 今こそ、われわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


【三島由紀夫が現代社会に問いかけるもの】

日本の伝統文化の最後の語り部としての自負を語る。その一方で、欧米文学の影響を受け、西洋的な文体を用いて小説を書き、コロニアル様式の西洋建築に住み、アポロン像を愛でる。臆病で女性的な内面を持ちながら、それを覆い隠すように筋肉の鎧を身に纏い、男性らしさの象徴たる武士道を追求する。

そんな自己内部での矛盾と闘いながらも、改憲を命がけで訴え、散っていった三島。


アメリカの支配から逃れ、日本人が魂を取り戻す為に改憲を行い、日本独自の治安軍隊を持つということを重視したが、その先にある目指すべき世界観、visionを語らずに、慌ただしく この世を去っていってしまった。

日本という国が、現在のようなアメリカ追従の半植民地的立場のまま、憲法を改正し、自衛隊を軍隊とした場合、アメリカ軍の傘下で傭兵のように戦うことになるということは明白である。

それは三島由紀夫が命がけで訴えてきた改憲、自衛隊の国軍化の意図とは甚だしく乖離する。

彼の目線は、常に個に向けられ、国という単位で上意下達で物事が動かすことではなく、個々人が動き出して初めて成立するような集団の在り方を望んでいたように思う。彼は決起を促そうした。自衛官一人一人の心に訴えかけようと試みていた。

決して、人質とした上官の命令一下で何かを企てようとするのではなく、あくまでも個々の意志によって動くという事を、個の意志を尊重して。

彼が存命であったなら、そのペンの力、弁舌と行動力とで、現行の政府が推し進めようとする改憲の矛盾点を世に知らしめ、右派の左派もなく、民衆の間で広く議論を闘わせる土壌を築き、魂の論客となっていたに違いない。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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