11月11日 富士川町→笛吹市(山梨県立博物館)→富士川町(54km)


今日も快晴。ソーラー充電で表面電圧が瞬間14.0Vまで上がる。11月にしてはとても高い数値。甲府盆地は日射が強いのだろうか。ソーラー充電は絶好調である。

午前中は、病み上がりのKの体調を整え休養。午後も日差しは絶好調で、このまま充電の具合を観察し続けたいところであるが、それでは旅が始まらない。
ということで、一行は毛繕いをして身支度を整え、笛吹市にある山梨県立博物館に行くことに。

なぜ甲府市ではなく笛吹市なのか。それはかつて、この地に国府が置かれていたことに由来するのではなかろうか。

庭の紅葉が美しい。


撮影時には夕方になってしまった。



これまで、他県の県立博物館では撮影可が多かったが、ここは残念ながら撮影不可である。
(※これ以降の写真は、すべて公式ホームページ、パンフ等からの転載となる)


山梨県立博物館は2005年開館と比較的新しい博物館である。
そのせいか、建造物も斬新なデザイン。館内は更に複雑怪奇。歴史を時代順に追いながらも、宗教、自然、文化などのテーマも織り交ぜている。

どちらかと言えば、子供向けの体験型学習施設となっているようだ。


パンフレットも、然り。


いろいろな仕掛けがあり、子供たちにとってはワクワク感があって楽しいのかもしれないが、大人の身としては、場内の薄暗さで小さな文字は読めないし、展示物もはっきりしないスペースがあったり、展示物も渦を巻くように並べられていたりと、不必要な導線を描いている様にも思えた。

その方が多くの展示が出来るとか、壁を設けずに済むとか、展示側としてはメリットがあるのかもしれないけれど……。


さて本題、ここの常設展では「山梨の自然と人」をテーマとしている。

展示内容に沿って、メモ書きを残したので、それを元に復元を試みることとする。


例によって、まず木簡や土器が展示されるが、すでに「甲斐」の文字がそこに書かれているのが面白い。甲斐国は古来から名馬の産地として有名であった。巨摩郡の巨摩は「駒」に由来する、という説もあり、また聖徳太子が甲斐産の黒駒に乗っていたという言い伝えもある。なにしろ、平安京における名馬の1/4は甲斐産だったらしい。

甲斐国は現在の山梨県に相当し、国内有数の「海無し県」で面積の8割は山岳地。
東西南北を奥秩父山地、南アルプス、富士山、八ヶ岳と、2,000mを超す山々に囲まれているため、水資源は豊富だが、その一方で水害との戦いの歴史でもあった。

「樅の木は残った」で有名な作家山本周五郎は、ここ山梨県北都留郡初狩村生まれ。生家は1907年の「明治40年の大水害」に見舞われ、祖父母と叔父・叔母を失っている。中編の「柳橋物語」には、主人公の「おせん」が火事や地震、水害に翻弄される非常にリアルな場面があるのも頷ける。

また、甲斐国は仏教文化も盛んな土地であった。
鎌倉から室町時代にかけての禅僧・夢窓疎石は伊勢で生まれ、幼少に甲斐に移り、ここで仏教を学んだ。 

踊り念仏で有名な時宗・一遍上人の弟子であり、時宗の事実上の開祖と言われる真教上人もこの地を遊行した。

また、日蓮宗の開祖・日蓮が開いた総本山・身延山久遠寺も甲斐である。

日本の山岳仏教である修験道の開祖とされる役小角も、ここ山梨で修行を積んだ。


その本尊である「蔵王権現立像」も展示されている。



仏教のコーナーでは、後世へのタイムカプセルとして話題となった「経筒」のレプリカの展示がある。

平安時代の僧・寂円は、末法の世が過ぎ、釈迦入滅の56億7千万年後に弥勒仏が出現するという言い伝えを後世に伝えるべく、法華経8巻を写経し、1100年に銅製の経筒に納め地中深くに埋めた。そして、1962年に発電所工事の最中に、標高500mの白山山頂で偶然発見されたという。

経筒に用いられる道具は全て一から作られたものであり、紙はコウゾの木の栽培から始められたため、4年の歳月を要したという。


一面六臂の愛染明王が天に向けて矢をつがえている「愛染明王坐像」も迫力があり、見応えのある作品であった。


そして、甲斐の英雄といえば、もちろん武田信玄である。


越後の上杉謙信と激戦を繰り広げた川中島の合戦の絵図面が展示されている。


遊行僧(ゆぎょうそう)木食白道も甲斐国出身。 

日本全国を旅し、訪れた先々に一木作りの彫刻を奉納して廻った江戸時代の仏教彫刻家としても知られ、笑みを浮かべた可愛らしい作品が展示されていた。


江戸につながる窓口としての軍事上の重要性に加え、甲斐は金の産地で数多くの金山が分布していたため、江戸時代の享保9年(1724年)に幕府直轄領とされた。

当然ながら、この博物館でも佐渡金山で見たような金の採掘と鋳造に関する展示があった。


幕府からは「甲府勤番」と彼らを統括する「甲府勤番支配」が派遣されていたが、江戸の旗本たちにとって「甲府勤番」に任命されることは、「出世の見込みのない左遷」と見なされ、「甲府勤番山流し」などと揶揄されていたようだ。

実際に、何らかの罪状、悪事、不届きのあった旗本達を一種の追放懲罰で甲州送りにしており、「不良旗本の左遷の職」となっていたらしい。

江戸から遠く離れ、小仏、笹子の二つの険しい峠を越えなくてはならず、寒暖の差が厳しい。その上、町方では甲州博徒が幅を利かせ、在方(農村部)には野盗や山賊、「ご浪人さま」と奉られる武田家の遺臣が存在し睨みを利かせており、いわゆる無法地帯と化していた。そんな世界への赴任である。

山本周五郎の長編小説『山彦乙女』では、主人公・安倍半之助の叔父・遠藤兵庫が、武田家の隠し財産の謎に取り憑かれ、甲府勤番中に失踪することから物語が始まっている。中里介山の未完の長編『大菩薩峠』では、江戸の旗本・神尾主膳が甲府勤番を命ぜられ、失意のうちに放蕩の生活を送っている。

その一方で、甲府勤番・勤番士は学問的関心を持ち、文化初年(1804年)に在任した松平定能は、地方史家の協力を得て『甲斐国志』を完成させ、勤番士の学問所である徽典館も開かれた。

また、甲府では町人文化も栄え、町人が芝居小屋・亀屋座を開業し、歌舞伎や相撲、人形浄瑠璃などの興行を行い、中でも江戸歌舞伎は「甲府で成功すると江戸での成功間違いない」と言われ、江戸の学者や文人も甲府に遊ぶようになり、食文化も江戸前の影響をうけて発達し、鮑(あわび)の煮貝などの名物を生んだ。
 
さらには人気浮世絵師歌川広重を招き、城下の大通りを浮世絵の幕絵で飾る「甲府道祖神祭礼」を開始したいう。その幕絵のレプリカも展示されている。

江戸後期になると、天災による農村の荒廃により無宿・博徒が増加し、竹居安五郎黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭し始め、行政とは異なる博徒を中心とした権力構造が存在していたが、領民と共に百姓一揆や米騒動に加わったり、明治初期の甲州独自の金納税制であった大小切税法の廃止に反対するなど、庶民の暮らしに密着した存在となっていたようだ。

山梨県民は「任侠」「義侠」的気風が高いとされる所以である。


そして、山梨といえばブドウ栽培とワインである。
山梨におけるブドウ栽培の歴史は、8世紀の僧・行基が甲斐国の柏尾山大善寺の境内でブドウ栽培を始めた、という伝説があるくらい古い。戦国時代の甲斐では、戦国武将・浅野氏によりブドウの栽培が奨励されている。よって、ブドウ栽培やワイン製造についての詳しい展示も、この博物館の見所の一つとなっている。


近代に入ると、殖産興業化が進み、多くの著名な起業家を生んだというあたりは割愛し、一行は見学を終える。


山梨の多彩な文化を紹介する展示で、いろいろ工夫もされている一方、見終わった印象がやや散漫だった。

小学生にも興味を持てるよう、人形や模型を多く展示したり、紙芝居風の仕掛けがあったり、RPGゲームを取り入れているのは悪くないが、大人にとっては、各テーマをもう少し深掘りしてほしい気がする。


帰りに「ほうとう専門店」を検索して出て来た店でほうとうをいただく。


外観は老舗風であったが、足を一歩踏み入れると、すぐに舞台の大道具が徹夜して作ったようなハリボテであることに気づく。温泉地という場所がらか、ズバリ観光地価格。単品1400円相当の高級?ほうとうであった。

観光初日、あまり幸先の良くないスタートではあるが、山々に囲まれた雄大な景色は美しく、街灯りがきらめく夜景も素晴らしい。

今夜も山脈に囲まれた道の駅「富士川」に宿泊。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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