10月28日 見附市→長岡市[北越戊辰戦争伝承館・新潟県立歴史博物館]→小千谷市(54km)①


今朝は雲が多いが、日差しが時折暖かい。

道の駅では、見附市の減農薬コシヒカリの試食会を開催していて、呼び込みの声が響き渡り、見附市の民謡の数々がBGMで流されていて、なんだか楽しい。

今日は、まず最初に 長岡市にある北越戊辰戦争伝承館に行くことに。


ここは日本で唯一の戊辰戦争に特化した資料館。
田んぼの真ん中にある伝承館へと続く道の両脇には、北越戊辰戦争に参加した各藩の幟が風に舞っている。

地元長岡藩も、会津藩も、薩摩藩も、新政府軍に参加した近隣の諸藩も、仲良く入り乱れて並べてある。


敷地内には「大黒古戦場」の石碑がある。
ここ大黒地区は、両軍の激戦地となったところで、石碑には「付近の村々は戦いのために焼かれたが、その勇戦を讃え、碑を建てた。1987年 長岡市」とあった。

北越戊辰戦争とは、戊辰戦争の中でも現在の新潟県における戦争を指している。


当時の新潟(越後)の状況については、越後全体での石高は109万石あり、11の藩主がいたが、大大名は存在せず小藩が林立していた。


そして、その半分は他藩の領地か幕府領であり、そのうち会津藩は8万5千石、桑名藩は11万石の領地を越後に有していた。両藩は多くの藩兵を越後に派遣しており、幕府領では幕府脱走兵の衝鋒隊や水戸浪士隊など、反新政府側の勢力が越後に集中していた。

越後では、糸魚川藩など西の4藩は藩主の意向もあり、当初から新政府側についていた。一方、長岡藩より東の7藩は態度を決めかねていた。

そうした中、新政府軍は高田に集結し、海道軍と陸道軍に分かれ、長岡に向けて進軍して来たのである。


「伝承された新組地域の戦争」と題したパネルの一つに、「長岡藩士とともに転戦した若者の悲しい末路」がある。


地元福島村の馬医者だったある若者は、歓呼の声に送られ長岡藩の兵士として出征した。各地で転戦したが、奥羽越列藩同盟同盟軍が敗れると、密かに家に戻った。しかし、長岡藩の侍が福島村を夜襲し多くの家を焼いたことに村人は激怒し、長岡藩への協力者を新政府軍に密告していることを知った若者は、「己に安住の地なし」として、自宅の土蔵で自ら命を絶ったという。

また、「四ツ屋村の公用日誌」が紹介されている。戦争に巻き込まれた農民がどのように対処したかが、毎日のように記録されている。まず長岡藩の命令に従い、長岡城が落城すると、新政府軍がやって来る。その後長岡藩により長岡城が奪還されてからは、同盟軍の宿陣地となり、各藩が入れ替わりで村にやって来た。7月末の再落城までに、村の半数が焼かれたという。

「農民としての暮らしもできず、村と村人を守るために協力することになる。ここで生きていくしかない、農民の切ない定めであった」と書かれてある。


この伝承館では、北越戊辰戦争の全体像について説明しており、必要に応じて戊辰戦争全体にも言及している。

しかし、ある一兵士の転戦の様子を時系列にまとめて紹介するなど、展示の視点はあくまでもミクロである。


この伝承館は、「地元の歴史を後世に伝えたい」という、地元の強い要望により建設された。戦争に巻き込まれた農民たちの苦悩を前面に出している、小さいが明確な主張を持つ施設だと思う。 

戦火に巻き込まれてしまった人間にとって、敵も味方もない。

人と人が争わない時代を築きたい。
この旗の隊列から、そんな熱い思いが伝わってきた。


さて、北越戊辰戦争に関連した長岡藩の歴史を語る上で、忘れてはならない人物がいる。長岡藩家老・河井継之助である。

彼こそが、長岡藩の命運を分けた戦いへと導いた中心人物である。


この伝承館では、彼に関して扱った資料は少ない。


長岡市内には、この北越戊辰戦争伝承館とは別に、河井継之助記念館が存在する。

残念ながら我々は行く事が出来なかったが、彼について触れずにおくわけにはいくまい。


河井継之助は、幕末における傑出した人物であることは周知の通り。

テレビドラマなどでも度々取り上げられており、現在も役所広司主演で司馬遼太郎原作の「峠」が映画化されようとしている。

【長岡モンロー主義、武装中立の道を模索】

当初、河井は、新政府軍側でもなければ、幕府側でもなく、あくまで中立の立場を取っていた。他と協調せず、自国の独立を守ろうとする「長岡モンロー主義」を主張していた。

そのため、領民の犠牲を避けるため非戦・恭順を主張する上級家臣達の意見をも封じ込め、長岡藩の江戸屋敷を売り払って資金を調達してまで、当時最先端の洋式大砲を外国から購入して藩の軍備を強化し、長岡藩の「武装中立の道」を模索したのである。


【小千谷談判の決裂】

慶応4年(1868年)5月2日、小千谷市慈眼寺にて、河井継之助は新政府軍側との会談に臨む。

当初、河井は「旧幕府軍と新政府軍の戦争回避、共存」を願い、調停を行う事を申し出るつもりでいた。

しかし、そこで、新政府軍側に恭順を促され、さらに会津討伐を命じられる。これに対し、河井は「錦の御旗を掲げた官軍に正義はなく、 討幕と会津討伐の正当な理由がない」として長岡領内への侵入と新政府軍擁護の戦闘を拒絶する。

最後に、河井は、
「私利私欲のためではなく、領民が安心して幸福な生活を送ることができ、日本中の人々が皆協力し合い強固な国家を築き上げることことができれば、天下の幸せに繋がるだろう」と、国家の理想論を記した嘆願書を差し出し、新政府へ取り次ぐように申し出た。

しかし、河井の要求は退けられ、交渉は決裂する。

長岡藩には、もはや新政府軍と戦う道しか残されていなかった。


【長岡藩、新政府軍と戦う】

恭順派の家老達も、藩の開戦決定後は藩命に従い、河井継之助は名実共に開戦の全権を掌握。

そして、ついに長岡藩は幕府側についた。

北越戊辰戦争において長岡藩兵は、近代的な訓練と最新兵器の武装と、河井継之助の巧みな用兵により、開戦当初は新政府軍の大軍と互角に戦っていたという。

しかし、長岡城が占領され苦戦している中、長岡の民衆から不満が一気に爆発し、「人夫調達の撤回と米の払下げを求める」世直し一揆が起こる。

河井は一揆の鎮圧に人員を割き、その上人夫調達も困難となり、戦況はますます悪化。 

3か月にも及ぶ戦闘の末、長岡城下は焼き尽くされてしまった。


長岡において、河井継之助は「郷土の英雄」である反面、「長岡を余計な戦争に巻き込んだ罪人」と捉えている人達も存在する。

一部の長岡の人々の恨みを買い、彼の墓は何度も掘り返された、という。

その為か、北越戊辰戦争伝承館でも、「戦争に巻き込まれた民衆の苦悩」を前面に打ち出しこそすれ、藩の指揮官である河井に関する展示には積極的でないのだろう。

河井継之助は、一途な人間である。
世の為人の為に働こうと、学問を積み、見聞を広めていった。

藩主の信頼も厚く、藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥の平均化を断行。さらに風紀を粛正したり、農政改革、灌漑工事、兵制改革、藩政改革を行い、次々と成果をあげている。

新政府軍側にも恭順せず、会津側にもつかず、中立を貫こうとしたのも、長岡藩を救う道はこれしかない、という強い信念によるものだった。

生きていれば、明治期の平安の世においても、必ずや活躍したはずの人材であった。

長岡の藩を、そこに生きる人々を、強いては国家を、欧米列強から守ろうと必死だった。

戦争において「勝ったか負けたか」というような結果論で当事者を処断することはできない。

しかし、最終的に自らの配下にある多くの人々の人命、多くの領民の生活を犠牲にしてしまった。

そうした事も念頭に置いた上で、「どんな大義があろうとも、一度戦争が起これば、真っ先に苦しむのは民衆である」ということを、改めて肝に命じなければならないと思った。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

0コメント

  • 1000 / 1000