小木・宿根木の文化を堪能したKYは、最後に「佐渡博物館」を見学することに。
ここは「佐渡学研究基地」になっており、佐渡の中心的な総合博物館という位置付けである。
佐渡の文化は、俗に「国仲の公家文化」、「相川の武家文化」、「小木の町人文化」と並び称される。
ちなみに、ここは佐渡ヶ島の中央部にあたる国仲。
これまで、「武家の相川」、「町民の小木」と周ってきたので、今回は「公家の国仲」を中心に歴史・文化を辿ることとする。
国仲の文化は、中世の頃からこの地に配流のとなった、順徳天皇、日蓮、日野資朝、世阿弥といった国の中央から政治流人として送られてきた人々の影響を受けて形成されていった。
公家の文化として、代表的なものといえば、やはり能である。
佐渡には、江戸時代に200を超える能舞台があったといい、現在でも30余りが残っている。人口当たりの能舞台数は、江戸時代も現在も全国一である。
これらの能舞台では、毎年春から秋にかけて行われる薪能をはじめ、イベントや祭りが催されているという。能は、各地区の子供達が大人から指導を受けて演じ、伝統を継承し続けている。
歴史を辿ると、鎌倉時代中期の近江能楽師(当時は猿楽師と言った)で面打ちの赤鶴吉成や、室町時代の世阿弥がこの地に流されたことで、佐渡に能楽のタネが蒔かれた。
1553年には京から観世元忠の一座が興行に来ている。時の将軍・足利義輝にも招聘された都のスターである元忠の来訪は、佐渡で能が興行された最初の記録である。
彼は世阿弥の「風姿花伝」を筆写し、後世に伝えたことでも知られている。
江戸期には、自らも能楽師であった初代佐渡奉行・大久保長安が、佐渡での能の普及に貢献した。
佐渡の伝統芸能としては、能以外にも古浄瑠璃、文弥人形、のろま人形、説教人形、鬼太鼓などが代々受け継がれている。
人形芝居の一種であるのろま人形は、能の幕間狂言的に行われていた。
また、神事芸である鬼太鼓は、能楽師が仕舞いの振り付けを付け加えており、獅子舞と合流して今の形となったとされており、それぞれが能の影響を受けつつ伝承されてきた。
明治に入り、能や狂言が徐々に勢いを失ってくる中で、佐渡は能の伝承と保存において一役を買ってきたのであった。
この博物館の展示は、「自然・考古・歴史・民俗展示室」、「美術・工芸展示室(新潟・佐渡の縄文土器などを展示)」、「佐渡金銀山展示室」に分かれており、ジオパークとしての佐渡の様々な岩石を野外展示するロックガーデンもあった。
明日は、いよいよ佐渡とお別れ。季節がもう少し早ければ、薪能や鼓童の公演なども見ることが出来たし、もう少し時間があれば、歴史伝説館や各地の資料館を巡ったり、北部のジオパークへと足を延ばすことも出来たはず。……と、色々と心残りで名残惜しさも感じる。
一行は、後ろ髪を引かれながらも、明日、出発する港がある両津地区へと向かった。
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