今日から新潟県の旅が始まる。
昨晩から宿泊している「道の駅 新潟ふるさと村」は、北陸自動車道新潟西ICからそれほど遠くない信濃川左岸にあり、新潟市中心部から一番近い道の駅だ。
川向こうには鳥屋野潟があり、自然溢れた公園になっている。すぐ隣に国道8号が走っているが、比較的静かで ぐっすり眠れた。
朝目覚めると、すぐ目の前に「新潟日報」の看板を掲げたビルが目の前にそびえ立っていることに気付く。
新潟日報といえば、『堕落論』『白痴』で有名な昭和期の作家・坂口安吾の父が創設した新聞社(元新潟新聞社)。長兄献吉も社長を務めている。
そう、ここ新潟は安吾生誕の地。父・坂口仁一郎は衆議院議員となった地元の名士であった。
元来の無頼派好きのKと、最近安吾に目覚めたYは、嬉々として坂口安吾記念館「安吾風の家」に向かうが、住宅街の細い路地を入ったところにあるため駐車場が狭すぎてKYのヌリカベのような車では、とても駐車できず、泣く泣く現場を後にした。
次に向かったのは、新潟港にほど近い「新潟市歴史博物館」。
はじめに「新潟県立歴史博物館」へと向かうつもりでいたが、福島県同様、これまた県庁所在地に県立歴史博物館はなく、現在県第2位の都市・長岡市
にあるという事がわかった。新潟県も福島県同様、本来の歴史の表舞台に花を持たせたということか。
博物館は旧新潟市庁舎のデザインを取り入れた洋風建築で、なかなか立派である。
隣には旧新潟税関庁舎の建物が保存されているが、現在は改装工事中。この税関庁舎は1966年まで約100年間使用されたという。
新潟市歴史博物館のコンセプトは、「水の恵みを享受し発展してきた新潟市の歴史を紹介する」となっている。
新潟は、幕末の1858年に江戸幕府が対外開放した5港のうちの一つ。
日本海最大の湊町であり、天領でもあった新潟港は、函館・横浜・神戸・長崎と共に開放されたのである。
新潟は日本海に面するだけでなく、日本最長の信濃川と隣接する阿賀野川の2つの河口を有している。
そして、ロシアや中国東北部、朝鮮半島に相対すると同時に、日本海を通じて上方や東北・北海道と結ばれており、信濃川を通じて信州の奥深くへ、阿賀野川を通じて会津地方へと結ぶ水運の拠点となってきた。
また、水は恵みというだけでなく、時に河川の氾濫を引き起こしたり、塩害による飲料水不足などで、人々の運命を翻弄し続けてきた。
新潟は、水と共に歩んできた町なのだ。
新潟市近辺には、古代の遺跡が結構残されている。砂丘の地形に人が定住し、地下に井戸を掘って飲料水を得ていた。
前に秋田県大館市で作った「曲げわっぱ」を大きくしたような木製の筒を用いて、簡易な井戸を作っていたらしい。
平安時代には製塩が行われた痕跡がある。
このようにして、土器を使って製塩していたらしい。
その後、主に江戸時代になって、砂防松などの植林や数々の水利工事により、新潟市周辺の土地は居住地や農地として徐々に整備されてきた。
信濃川河口の湊町・新潟は、江戸幕府に入ってからは長岡藩領の一部であった。隣接する阿賀野川河口の湊町・沼垂とは、河口付近の利権争いが長く続いた。その後、新潟は天領となり、幕府から新潟奉行が派遣された。
初代新潟奉行・川村修就は、砂防松の整備や水路の充実などを行なったが、10年の任期の間に、江戸とは異なる新潟の風俗を「あまのてぶり」という絵巻物に書かせており、その一部が展示されている。
これは、お祭りの様子。
新潟の女性はよく働き独立心が強く、江戸時代の新潟では、女性が戸主として認められていたらしい。
その為か、
「新潟の女性にとって、離婚は恥ではないようだ」と、川村は書き残している。
幕末期になって、新潟は対外開放されたものの、同時に開放された5つの湊町の中で対外貿易の拠点としては振るわなかった一方で、北洋漁業の拠点としては大きく発展する。
新潟周辺の漁民が集められ、サハリンや沿海州、カムチャッカに遠洋漁業に派遣された。
展示を見て初めて知ったが、第二次大戦の末期、日本各地がアメリカの空襲を受ける中、新潟市は1945年の時点で全く空襲を受けてはいなかった。
それは、新潟が原爆の投下対象になっていたからである。
アメリカは新潟市内の攻撃目標を決めていた。
それを察知した新潟知事は、県民を大規模に疎開させており、終戦時には新潟市内には市民がほとんど残っていなかった。
日本のポツダム宣言受諾が遅れていたら、新潟は間違いなく原爆の被害に見舞われていたことになる。
第三の原爆被災地を産まずに済んだことは、本当に不幸中の幸いであった。
最後に、新潟市の歴史に関する4つの短いアニメーション、「黒鳥伝説」、「あまのてぶり」、「新潟・水の記憶」、「時をこえて! 新潟開港」を見て、KY夫婦は博物館を後にした。
我々夫婦は、これまでいくつかの博物館で、貴重な映像資料と出会い、感銘を受けてきた。
どの県、市町村でも、そのクオリティは素晴らしく、その土地土地の風俗、歴史、文化がわかる見応えのある内容であった。
今回、この博物館においても、期待に胸を膨らませワクワクしながら、立派な設備の整った階段状のホールの椅子で、実に2時間ほどの時を過ごした。
そしてわかってこと。それは、この博物館が追求しているのは「ファンタジーの世界」だということ。
歴史を語るのに、アニメキャラや架空の人物、SFは必要ない。
誰に向けて、何の目的で作成されたものなのか、そのメッセージを受け取ることが出来ずに終わったのは我々だけか?
この新潟の歴史を語るアニメを見たことのある方々に、是非とも感想をお聞きしたいと思う。
財政の逼迫する中で行政を預かる方々、そんな経費の使い方で市民は満足していると、本気でお考えでしょうか。
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