10月7日 栃木県那須町→白河市[白河関跡・アウシュヴィッツ平和博物館]→玉川村[道の駅 たまがわ](77km)②


白河の関をあとにした一行は元来た道を辿り、行きに見かけた「アウシュヴィッツ平和博物館」へと向かう。

東北の山奥に「アウシュヴィッツ」というのは何とも不思議な感じだが、ここは知る人ぞ知る白河の観光名所。Googleの「白河観光のおすすめスポット」として紹介されているほど。実は数日前に検索していたことをすっかり忘れていた。

矢印→のサインに導かれ、ゆっくりと小径の奥へ奥へと進んで行くと、砂利の敷かれた駐車場の奥に古民家風の建物が見えてきた。どうやら そこが博物館らしい。

デッキのテーブルでお茶を飲んでいた御老人が、ふと顔をあげ「観る前に、茶飲んでく?」とやかんを差し出し、親しげに話しかけてくる。リピーターの方なのか、ここの関係者の方なのか。心遣いは嬉しかったが閉館時間も間近という事で、軽く会釈をしてやんわりとお断りし、急ぎ博物館の中へと入る。

受付にいた男性の勧めで、先に20分ほどの映像を観ることにする。

第二次大戦中のドイツ・ナチスの人道的犯罪が行われたアウシュヴィッツ強制収容所。その恐ろしい犯罪行為を隠蔽するため、死体処理に関わった兵士は、その数日後に自身も処理される側へとまわるというサイクルで、完全に口外を許さぬシステムを構築。収容所施設は、ロシア軍が解放した時には、既にナチスの手により破壊工作がなされ、関係資料も処分されていたという。
しかし、現場に残された遺品や生存者・関係者などの証言などから、4年間にわたり行われていた凄惨な収容所での生活(及び殺人行為)の実態が明らかにされ、ポーランド政府は収容所の跡地を、この歴史的事実を後世に知らしめるため博物館として保存した。

この映像を観るまでは、アウシュヴィッツはユダヤ人虐殺のための施設だと思っていたが、ここには政治犯を含むフランス、アメリカ、ルーマニア、エジプト他、諸外国の人たちも収容されており、ユダヤ人だけでなくロマの人たちも、ジェノサイド(民族浄化)の標的とされていたと知った。


展示品は一つ一つがどれも生々しい。

例えば、「高さ120センチの横棒」
収容所に送られた子供たちは、この棒の下をくぐらされた。

この下を通り抜けた子供は、即ガス室送りである。それを知った子供たちは、懸命に首を伸ばしたという。現実には、即ガス室送りにはならなくても、劣悪な環境下での大人に混じった重労働が課されるのであり、その先にはほぼ確実に死が待っていたのである。

他にも、ナチスの装身具。

収容所の人々が実際に使用していた生活用具。

囚人服もあった。


ここは「ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館から提供された関連資料、犠牲者の遺品、記録写真約200点を常設展示する日本で唯一の博物館」なのである。

この博物館の由来は、初代館長だった青木進々(本名・青木進)の平和への強い想いから始まった。

青木は1970年代からグラフィックデザイナーとして活動。フランスの総合アート誌GUNNNERの特派員を兼任し、パリに拠点を置き、ヨーロッパと東京を往復する日々を送っていた。仕事先のポーランドの古本屋で偶然手に取った画集「子どもの目に映った戦争」に衝撃を受けた彼は、画集を日本で自費出版する。

そして、画集を管理するポーランド教育省、および多くのボランティアの協力を得て、「子どもの目に映った戦争原画展」を1年間かけ、日本国内55ヶ所で開催することになる。

「広島・長崎の原爆に匹敵する20世紀の負の遺産アウシュヴィッツは、わたしたち日本人にとって、いのちと平和の価値を学ぶための格好のテキストになる。」

このように考えた青木は、日本でのアウシュヴィッツ展開催を決意する。そして、彼の熱意はポーランド政府を動かし、国外搬出が禁止されていたアウシュヴィッツの遺品約70点が、日本に送られたのだ。

「心に刻むアウシュヴィッツ展」は10年間、110回にわたり延べ90万人を動員したが、これらは開催地のボランティアによって非営利で運営されるという、画期的なものだった。

展覧会の成功を受け、これらの遺品を常設展示する目的で、2000年に仮設の「アウシュヴィッツ平和博物館」が栃木県塩谷町に建設された。

初代館長に就任した青木は、しかしその翌年、末期癌の宣告を受けることになる。2003年、この白河市に本格的な施設として博物館が再オープンしたとき、彼はすでにこの世を去っていた。

博物館になっている展示棟は、茨城県玉里村(現小美玉市)の小沼氏より寄贈され、移築された江戸時代中期の古民家であり、移築にあたっては200人にものぼるボランティアの協力があったという。


博物館の敷地内には、このメインとなる第1展示棟の他にも、2つの展示棟がある。

煉瓦造りの小さな建物は第2展示棟「アンネ・フランクぎゃらりー」

「アンネの日記」の日本語版初版本やその世界各国版、隠れ家の模型や関連写真など約70展が展示されている。


レールの上に置かれたコンテナ車2両を用いた第3展示棟は、「子どもの目に映った戦争展」である。
ポーランドの子どもたちが戦争中の体験を描いた絵が展示されているが、戦時中、日常の記録を映像で残すことが厳しく制限されていたため、こうした「記憶の絵」は貴重な歴史資料となっている。
そして、これら子どもたちの絵の数々は、初代館長・青木進々が平和のための活動をはじめたきっかけとなったのである。



最後に、この博物館の展示物の中で、特に心惹かれたパネルをご紹介したい。

日本人にはアウシュヴィッツ以前に向き合わなければならない課題が山積しており、一つとして解決せず、突破口すら開けず、時代は逆行しようとしているかのようにも見える。

しかし、ここで「一人ひとりの命を守る」という観点から、日本人一人ひとりが、明治の開国以来 日本がこれまで辿って来た歴史と向き合い、見つめ直すきっかけとして、この施設を通して考え直す必要があると感じた。

閉館時間ギリギリの陽が翳り始めた頃、KY一行は静かに博物館をあとにし、白河市内へと移動。あぶくま高原道路を走り、福島空港近くにある道の駅「たまかわ」へと向かった。

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