10月7日 栃木県那須町→白河市[白河関跡・アウシュヴィッツ平和博物館]→玉川村[道の駅 たまがわ](77km)①

昨日から関東地方は夏日となり、朝から強い日差しが天窓から車内に射し込む。今日も嬉しいソーラー日和である。

目覚めた場所は東北自動車道下り那須高原SA。オールナイトでレストランやショップが営業しているとあって客足は絶えず。

人の声、車やバイクの爆音が辺りに鳴り響き一晩中騒々しかったが、なんとか眠りについた。


今日から また日本一周の旅が始まる。

これから一行が向かうのは、東北地方最南端 栃木県との県境にある福島県白河市。

東北自動車道を隣の白河ICで降り、白河の関を目指す。いにしへの旅の関所である。

白河の関は、5世紀ごろ 蝦夷(えみし)の南下に対する防御や、通行人の検問、交易品の検閲を行う目的で設置され、日本海側の鼠ヶ関、太平洋側の勿来関と並ぶ「奥州三大関所」の一つ。古来から多くの歌に登場する歌枕の地としても名高い。

古代中央集権国家の衰退に伴い、10世紀ごろから徐々に廃絶への道を辿り、13世紀には消失したとされている。

現在、白河市には 味の素製薬、エーザイ、信越化学、住友ゴム工業、パナソニック、フランスベッド、UHA味覚糖など、大企業の工場が続々と進出しており、インターを降りてから しばらくの間は工場地帯が続くが、しだいに昔ながらの田舎の佇まいへと変わって行く。

すでに稲刈りを終えた田んぼは全体の半分ほど。徐々に紅葉が見られる周囲の山々と、黄金色に輝く稲穂とのコントラストが美しい。

旧東山道(関街道)といわれる この道は、京都から下野までの国府を経て多賀城に達する基幹道であり、頼朝挙兵の一報を平泉で聞いた義経が頼朝の元へと馳せ参じた道、その後頼朝の大軍が奥州藤原討伐で平泉を目指した道である。

白河の関の遺構 旗宿に到着。

宿場というので家並みが連なっているのかと思っていたが、あるのは車8台分の駐車スペースとトイレ、中華レストランのみ。

道を挟んだ向かい側に、小ぶりな社務所があり、川幅3mほどの白川を渡ると、白河神社の杜の中から苔むした石段がひっそりと顔を覗かせている。

駐車場に車を停めて看板を拝見。

すると、この白河神社が鎮座する小さな杜こそが白河関跡であった。傍には「白河関の森公園」がり、そこに何やら建造物が並んでいるようなので、まずは公園の方に行ってみることに。

広い駐車場には車が多い。芝生に覆われた丘や子供が遊べる遊具があり、親子連れで賑わっている。

広場の入り口付近には、高さ1mほどの可愛らしいサイズの芭蕉と曽良の像がある。

芭蕉の「奥の細道」東北の旅は、ここ白河の関にさしかかったところから始まった。[以下、『奥の細道』から]

《白川の関》
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良


《須賀川》
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかゞしう思ひめぐらさず。

風流の初やおくの田植

無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。〜以下略

ちょっと分かりにくいので、現代語も。

【現代語訳】[『左大臣プロジェクト運営委員会』のサイトより引用]

《白河の関》
最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。
平兼盛は「いかで都へ」と、この関を越えた感動をなんとか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、なるほどもっともだと思う。
特にこの白河の関は東国三関の一つで、西行法師など、昔から風流を愛する人々の心をとらえてきた。
能因法師の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。
また源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと青葉の梢のむこうに紅葉の見事さまで想像されて、いっそう風雅に思えるのだった。
真っ白い卯の花に、ところどころ茨の白い花が咲き混じっており、雪よりも白い感じがするのだ。
陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌に敬意を払って冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているほどだ。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
(かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう)


《須賀川》
このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。
かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。
須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。
「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」

風流の初やおくの田植うた
(白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)

何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。

心踊らせ、いにしえの歌枕の地へと辿り着いた一行であったが、白河関の痕跡を一つとして見出せず、呆然としている芭蕉と曽良の姿が目に浮かぶのは私達KY夫婦だけ?


芭蕉と曽良の銅像の台石には、二人の俳句が刻まれている。

風流の初めやおくの田植えうた 芭蕉
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良


池の周囲に美しく木々が植えられた小道の先に、江戸時代の関所を模したとされる建造物がある。だか、この地白河に江戸時代の関所が置かれていたという事実はなく、一般的な関所の様子を再現したということらしい。
この建物の中を覗くと、番所で取り調べをする武士たちや、

女性の身辺を改める「人見女」の様子が紙人形で再現されているが、

もう少し当時の状況を分かりやすく説明する展示にした方がいいのでは?と思う。

とはいえ、周囲の風景は木々の色彩も色とりどりで心が和む。


駐車スペースに戻り、再び旗宿側 白河神社の方に移動する。

ここにあった看板の説明書で初めて知ったのだが、古代白河関の場所については、江戸時代に老中を務め、「寛政の改革」で知られる当時の白河藩主・松平定信の考証によって明らかになったらしい。
「白河の清き流れに住みかねて〜」と川柳で揶揄された松平定信は、実は学者でもあったのですね。



神社の登り口には1800年に建てられた「古関蹟」という石碑があり、考証の経緯が記されている。
1960年ごろ、再びこの地で発掘調査が行われ、柵列、柱列、門(推定)の跡が確認された事で、1966年に旗宿の地が古代白河関跡と認められ、国の史跡に指定されている。

しかし、古代白河関跡地の所在については異論もあり、論争は続いているようだ。


白河神社の周囲には、芭蕉「奥の細道」碑や、
白河の関を詠んだ平兼盛・能因法師・梶原景季の歌碑、

推定樹齢800年という巨木「従二位の杉」などがある。
侵入者を防ぐ「空壕」の跡もあり、城跡のようでもある。 
それら全体が一つの大きな森になっていて、散策路が整備されている。


白河の関をあとにした一行は、道中目に止まった「アウシュビッツ平和博物館」へと向かうことに。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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