9月24日 村田町内散策(村田町歴史みらい館・蔵の街並み)(14km)

朝から快晴、強い日差し。絶好の充電日和だ。
今駐車している第1駐車場は、道の駅営業開始と共に人が集まり始め、駐車場の誘導員さんも動き出したので、営業妨害にならないよう、道を挟んだ上方にある第2駐車場へと移動する。


ここ村田町は、人口1万ちょっとの町で、北側が仙台市と隣接している。町からは高速バスで30分ほどで結ばれており、ここから仙台へと通う人も多く、ベッドタウンのような利便性がある。

周囲は農村と小ぶりな町が合併したような景観で、夜になるとほぼ真っ暗になってしまうような田舎町だが、工業団地もあり、40社程の企業が集中している。


また、村田町には、紅花などの商いで栄えた「蔵の街並み」が残されている。
これは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、秋田の角館などと同様、「みちのくの小京都」の一つに数えられているという。 



道の駅「村田」の敷地内に併設される「村田町歴史みらい館」(無料)を見学する。
ここは村田町の「生涯学習施設」という位置付けで、館内一階には展示室の他に図書館、二階には郷土英雄 金メダリスト(重量挙げ)の三宅義信氏のコーナーもある。
会館前には、胸像も。


館内入り口の広場を飾るのは、布袋祭りの屋台
からくり人形仕掛けになっている。


屋台の左側の広場の壁には、村田町のもう一人の英雄・伊達宗高のコーナーがある。

ここ村田町には15世紀に村田城(現・城山公園)が築かれ、江戸時代初期には伊達政宗の七男・宗高の居城となった。

宮城県民の「伊達好き」もあってか、村田町は伊達宗高を町の観光の目玉の一つにしている。というのも、彼は蔵王山の相次ぐ噴火で領地が多大な被害を被ったとき、政宗の命を受け、自ら命がけで山に登って祈祷を行い、その結果噴火が収まったという逸話がある。 

彼は20歳の若さで病死したが、父の政宗同様、殉死者を出すほど領民に慕われていたということだ。


展示室に入ると、まずはお決まりの縄文・弥生遺跡。土器や土偶の展示の中に珍しいモノが。土偶としか書かれていないが、どこかETにも似ているような……。

変わったところでは、「鬼のミイラ」というものがあり、商家の蔵から発見された「鬼の頭と手」が、木の箱に厳重に施錠されて展示されている。
大江山の酒呑童子を退治した逸話で知られる、平安時代の武将・渡辺綱が退治した鬼とされている。

日本には、このような鬼のミイラがいくつか伝えられており、信じるか信じないかはあなた次第。


民俗関係の展示では、「カマ神様」というものを初めて見た。
カマド(台所)に掛けられる「カマドの神様」のことで、火難防止の願いが込められていた。この風習は宮城県と岩手県南部にのみ見られるもの。
目には貝殻が埋め込まれ、怖い形相をしている。


他にも、江戸時代、村田町が紅花の集積地の一つとして栄えたことを示す展示もある。


館内奥には、楽しそうに踊る布袋祭りの人形があったので、記念に加わるノリの良いY。他の来客があり、サッと素に戻る。


次に「蔵の街並み」を見に行く。

江戸時代の村田商人は、京・大阪、江戸の商人と活発に取り引きしていたが、紅花が代表的な商品だった。 

明治以降、化学染料普及により紅花の流通が途絶えると、代わって繭や生糸の集散地となり、醸造業も栄えた。

町の中心部の、東西約200m、南北約500mの範囲が「重要伝統的建造物群保存地区」とされており、江戸時代中期には現在の街並みの基礎が出来ていたらしい。

そして、現存している土蔵造りの店の多くは、紅花商人をはじめとする、近世から近代にかけて富を蓄積した商人が、主に明治時代以降に建てたものとなっている。

縦に伸びた商家の建物の隣には、手入れが行き届いた庭園が奥まで広がっている。

街並みの中央には、観光案内所の「まちの駅」があり、お土産物や資料がある休憩スポットとなっている。
中央にいるのは町のマスコット「くらりん」

洒落た盆栽で、小京都らしさを演出。

路地裏にある小さな御社も、どことなく雅な雰囲気。


街並み散策を堪能した一行は、車を走らせ郊外の温泉♨️で汗を流し、今晩も同じ道の駅に宿泊。

今日は第2駐車場に車を停めたが、ここはインターチェンジ入り口寄りのせいか、大型車が集結していてエンジン音が多少うるさかったが、深夜になるとそれも止み、代わりに虫の音が聞こえ始め、昨晩同様、心地よい眠りへと誘ってくれた。

⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「村田」


キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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