今日も、まずまずの天気。
駐車場周辺は、朝から賑わいを見せている。
あちらこちらから聞こえてくる挨拶の内容からすると、朝一番のコミュニティバスに乗って石巻市街地へ行こうと、周辺住民の方々がバスを待っているらしい。
どうやら、ここはそういった遠方へと足を運ばれる方々の為の駐車場代わりにもなっているようだ。
ならば早めに駐車スペースを空けなければと、早々に支度を済ませ、石巻の隣にある女川町へと向かう。
女川町は、牡鹿半島の東側にあるリアス式海岸特有の凹凸が激しい地形で、周囲を石巻市に囲まれ、そこだけ一口かじられたような形をしている。
全国でも有数のサンマの水揚げ基地として知られ、銀ザケをはじめ、カキやホタテ、ホヤなどの養殖も盛ん。女川原発もある。
震災前は人口8200人ほどだった女川町も、900人以上の死者・行方不明者を出し、大半の住民が家屋や親しい人を失い、地元の水産業も大きな打撃を受けた。
女川町を襲った津波は高さ20m近くに達し、谷間に沿って川と道路をさかのぼって湾から約2.1キロ離れた海が見えない山あいの集落を襲い、東日本大震災で最も高い死亡率55.9%となってしまったという。
石巻を離れ、車はカキ養殖が盛んな万石浦の北を回り込むようにして女川町に入る。
今まで通った三陸の被災地同様、いやそれ以上に盛り土などの土木作業の姿が目立つ。
途中、こんな看板も。
「わが町に いらない いれない 暴力団」
少し賑やかな場所に差し掛かった辺りの信号待ちで、ふと目を港方向に向けると、目の前に基礎から根こそぎ倒れた交番の残骸があった。
これは津波の引き波により倒されたもので、津波の脅威を教えてくれている。
女川漁港中央部からJR女川駅までは歩行者通路になっていて、両側にレストランやカフェ、バー、アパレル&雑貨店、フラワーショップ、旅行会社、体験施設などが軒を連ねた商業施設「シーパルピア」がある。
片岡鶴太郎氏のタイル絵もあって、全体的に明るい雰囲気。
若者が好みそうな、スタイリッシュでお洒落な雰囲気。
ウイークデーなのに、たくさんのお客さんで賑わっている。
人口6000人超の小さな女川町にとっては、貴重な商業エリアであり、来客をもてなす拠点となっているようだ。
入り口にある「ハマテラス」の一角にある食堂・岡清で、人気メニューの「女川丼」1300円を食す。
今までの海鮮丼の中でもボリューム感は天下一品。とれたての新鮮な魚介類がたっぷり乗っていて大満足であった。写真ではゴージャス感が表現出来なかったので、写真はカットする。
港前方からさらに正面の駅方面に向かって進むと、左手に女川町まちなか交流館がある。
館内には、震災関連の資料展示があり、復興計画などが分かりやすく解説されていた。
女川町は震災後、広範囲の盛り土と高台への集団移転を選択した。だから、女川港周辺の中心エリアは、全てが一新し、リニュアルされている。
女川は流されたのではない
新しい女川に生まれ変わるんだ
と、当時の小学生が綴った詩が、今では町のキャッチフレーズとなっている。
この町は、どこか内面から沸き起こるような活気に満ちているように感じられる。
「コバルトーレ女川」という地元社会人サッカーチームの活躍のせいだろうか。
このチームは、東北の1部リーグで2016年、2017年と連続優勝を飾り、今年からJFL(日本フットボールリーグ)に参加しており、アマチュアチームとはいえ全国区に昇格した。
今年のJFLリーグは16チームが参加しており、そのうち東北からは女川のほか、八戸・仙台・青森の3チームが参加しているのだが、特記すべきは女川町は人口約6000人の小さな町であり、そのチームが大都市のチームに混じって健闘しているということ。
彼らは日中、水産加工会社などで働き、練習は夜になる。そして、少年サッカーへの指導も行なっているとのこと。今後JFLで結果を出し、Jリーグ加盟を目指している被災地の期待の星のチームであり、何となく応援したくなる。
そしてまた、震災直後に出身地女川の同級生達と復興支援委員会を立ち上げ、その活動を牽引し続けているという中村雅俊さんの存在も大きいのではないかと感じた。
彼は、最近、自身のブログに、こんな文章を載せている。
東日本大震災から7年が経ちました。
今もなお、住宅再建! 産業再生! 復興の格差! コミュニティーをどう再建していくか?
復興の理想と現実! 支援の熱が冷めてしまったり、今ここに来てどのように支援していいかわからない等、様々な問題がまだ山積です。
復興は確かに進んでいますが、実際は復興から取り残されている人、地域があります。
被災の仕方が街によって違うように、復興の仕方もそれぞれ違います。
当然、復興の内容、スピードにも格差が生じてしまいました。
個々の事情にあったキメ細かい支援、復興。 そして、住む人たちが自分たちでその答えを見つけ出すことも大切だと思います。
コミュニティーの分断!!被災地には高齢者が多いという事実。仲間がいない。孤立化が進む。
どうやって元気を取り戻すか? 心のつながりをどうやって作るか?
孤独の寂しさ!!生きがいがない!最大の苦痛はやることがないという現実。
これからのテーマは心のケアです。
復興の形も、量的復興から質的復興に変わるべきだと思います。
今もなお仮設住宅に住んでいる人達がいます。仮設住宅の寿命は2年です。もう8年目に入りました。
出来るだけ早く、仮設住宅から脱出して、 出来れば2020年のオリンピックをプレハブではない場所で見たい、見てもらいたいと思います。
そういう目標を掲げることも大事かと思います。
そして被災された方々が心の底から大笑いをする、その笑顔をいつの日か見たいと思っています。
ワスレナイ!!!中村雅俊
(「中村雅俊オフィシャルサイト」より)
人は 行いがすべて。
見習わねば、としみじみ思う。
次に、一行が向かったのは女川原発PRセンター。海沿いの道が曲がりくねっているので、牡鹿半島の比較的内陸部を縦断するコバルトラインを走ったのだが、コバルトラインも海岸線同様曲がりくねっていて似たようなものだった。
あまり走りやすいとは言えない細めの道路で、しかも傾斜のある坂道続き。すれ違う工事関連のダンプカーも多い。したがって運転には細心の注意が必要。途中、聞いていた音楽も一時ストップし、気持ちを運転に集中させて安全運転に努めた。
やや大げさだが、牡鹿半島は陸の孤島という感じである。
眼下の湾上には養殖棚が整然と並んでいるが、道中、人家はまばらだ。
女川原発は現在、1号機から3号機までの原子炉全てが停止しているが、今年後半に予定されていた2号機の再稼働は、安全対策工事の完了の目処が立たないとして、東北電力がすでにその延期を発表している。
PRセンターの展示内容は、原発の発電の原理や原子炉の構造、原子炉建屋や格納容器の遮蔽壁のモデルの展示、日本にとっての原発を加えたエネルギーミックスの必要性などに関するものであり、当然ながら原発の必要性と安全性をアピールした内容。
原発のマイナス面、例えば福島で実際に起こってしまった海水や電気の供給が失われた場合の対処方法などについては触れられてはいない。
センターへ向かう道には、原発に反対する大看板が2つほど目にとまる。
住民の思いや いかに……。
帰りは海沿いの道を通って石巻市へ戻る。くねくね度は内陸部を走るルートの方が上だった。つまり、海岸線ルートで正解であった。
そして今日も、また同じ道の駅「上品の郷」でお世話になることに。
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