今日は、一般財団法人 水俣病センター相思社が運営する「水俣病歴史考証館」を見学。
ここでは、考証館として水俣病の知識普及につとめるだけでなく、膨大な資料の保管、患者の支援や交流の拠点としての役割も負っており、大学など外部機関の合宿やワークショップの場にもなっているという。
ここは、また水俣病問題のNGOであり、未認定患者運動の拠点でもある。
1969年に提訴された水俣病訴訟も、1972年頃には原告患者側勝訴の見通しがつくようになったが、水俣病患者は地域で孤立していくようになる。
そんな「地域から孤立してしまった水俣病患者と家族の拠り所を作りたい」と、全国にカンパが呼びかけられ、1974年に相思社は誕生した。
相思社のパンフレットには、こう書かれている。
相思社がめざすもの
水俣病多発地から丘を少し登ったところに相思社があります。眼下には不知火海がゆったりとたたずんでいます。半世紀ほど前、不知火海に面した漁村に得体の知れない病気が発生しました。病に冒された人々は近隣の人々のさげずみの目を避けるようにひっそりと暮らしていました。なぜ、罪科のない人々が理不尽な苦しみを強いられなければならなかったのでしょうか。
水俣病事件は一企業の犯罪にはとどまりません。便利で豊かな生活を追い求めるという、ごく当たり前とされる行為が歴史の必然として産み落とされた事件でした。水俣病患者は歴史の、人間の欲望の犠牲者だったのです。
半世紀を経た今も人々は便利さ・豊かさという呪縛から解き放たれてはいません。水俣病事件は人間のあり方を根本的に問い続けています。水俣病事件の真実と意味を明らかにすることは人類の未来にとって重要な意味があります。相思社はそのために努力を続けています。
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KY夫婦が訪問したときは丁度お昼時で、庭先で研修施設の宿泊者の方を囲んだ10人ほどの方たちがお座敷の上で花見弁当を広げているところだったが、スタッフの男性が一人抜け出してきて、我々二人のために展示室で丁寧な解説をしてくださった。
まず始めに、水俣病についておさらいを。
《水俣病について》
水俣病は、日本の化学工業会社のチッソ水俣工場が不知火海に流したメチル水銀含有の廃液により、魚介類が汚染。それを食べた地域住民が健康を害した公害事件。
1956年に公式に発生が確認された日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の一つであり、「公害の原点」ともいわれている。
メチル水銀の廃液は1932年から1968年まで、36年の長きに渡り流され続けたが、原因が特定された1959年以降も有効な措置が取られず、水俣市周辺のみならず、不知火海沿岸地域(山間部を含む)に渡り、多くの患者を生じさせた。
水俣病は、有機水銀(メチル水銀)を原因とする中毒性中枢神経系疾患であり、食物連鎖により高度に濃縮された有機水銀を経口摂取することで起こる。
また、メチル水銀は脳などの中枢神経を破壊するだけでなく、内臓にも影響を与える。
メチル水銀の濃厚汚染により短期間に死亡した例や、母親の胎内で被害を受けて胎児性水俣病を発症した例、長期に汚染を受けた慢性水俣病がある。
症状としては、脳などの神経系統が侵されることで、末梢神経のしびれや麻痺、視野狭窄や聴覚の不良、運動機能の低下など様々な症状を引き起こす。
狂ったように身体を激しく痙攣させる患者(ハンター=ラッセル症候群)の映像がよく知られており、あれこそが水俣病患者であるという誤った認識が見られるが、実際には「疲れやすい、物忘れがひどい」など、目に見えない症状に苦しむ患者も多い。
これまでに熊本県と鹿児島県とでおよそ8万人以上の方が症状を訴えている。
《加害者企業・チッソ株式会社について》 〜朝鮮半島にも進出した大財閥の中核企業〜
チッソの前身は、シーメンス日本支社にいた野口遵が設立した電力会社と日本カーバイ商会が合併して誕生した「日本窒素肥料株式会社」である。
1908年の合併後、石灰窒素・硫安の製造や、人絹工業、合成アンモニアの製造に成功し、総合化学企業として急成長してきた。
旭化成や積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、日本ガスなどの母体企業でもある。
巨大化した会社は、工業中心の財閥・日窒コンツェルンを形成し、日本の15大財閥の一つに数えられるようになる。
1927年には、日本の統治下にあった朝鮮に進出。
興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人。
設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートに成長。
第二次世界大戦の敗北により、興南工場を始めとする国外資産・工場設備を失い、空襲で壊滅状態となった水俣工場のみが残され、日窒コンツェルンは解体。
1946年、水俣工場でアセトアルデヒドの製造を再開。
1947年、水俣工場の肥料生産量は戦前の水準を超える。
1949年、水俣工場を昭和天皇が行幸し、戦災から急速に立ち直り肥料増産に励む状況を視察。
こうして、チッソ水俣工場は、戦後日本の屋台骨を支える企業として期待を一身に受け、邁進してゆくのである。
《水俣病患者に対する差別》
初期の水俣病の発症者は漁民であり、中でも不知火湾南側地域の漁民が多く、彼らのほとんどが天草など他の地域からの移住者であった。
古くから水俣で利用を行う漁民は半農半漁の生活を送っていたが、移転してきた漁民は土地を持たず、魚を主食とした食生活を送っていたのである。
そのため、移民系の漁民に発症者が多くなり、「これは漁民の病気、移住者の病気である」として、漁民の間でも移民してきた者に対する差別が広がっていった。
他地域の人間が水俣の人間を差別し、水俣の一般市民は漁民を差別し、漁民は移民系漁民を差別するという、差別の多重構造が出来上がっていったという。
《損害賠償請求訴訟》
1969年、患者や家族のうち112人を原告とする、チッソに対する損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)が熊本地裁に提訴される。
この裁判は73年に原告が勝訴し、チッソとの間で補償協定が締結された。
(補償対象者は死者を含む約3000人)。
1982年には、かつて不知火海沿岸に暮らし、その後関西に移住した水俣病患者と家族による裁判(関西水俣病訴訟)が起こされている。
94年に大阪地裁は国と県の責任を否定し、一人260万円の一時金により全国の大半の原告が訴訟を取り下げる結果となった。
しかし、国と県の行政責任にこだわった原告たちが粘り強く訴訟を続けた結果、2001年に大阪地裁において初めて勝訴し、2004年の最高裁判決でも、同様に国と県の行政責任を認めている。
この訴訟過程においても、チッソの城下町水俣では、水俣病患者の周囲、家族や親戚、近隣住民にはチッソ社員がおり、訴えを起こす患者を快しとせず、患者は告訴を非難されたり、村八分の扱いを受けたり、さまざまな差別や中傷被害を受けるようになり、水俣の市民生活はズタズタに分断されていくことになるのである。
水俣病認定に関する訴訟は、現在も続いている。
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水俣病歴史考証館では、不知火海の自然と暮らし、水俣病の被害や患者の闘い、チッソ・行政による加害行為などを記録し展示している。
また、他では見られない実物資料も展示されている。
「ネコの実証実験をした小屋」
水俣湾に張られていた仕切り網
他にも、水俣湾に堆積した水銀ヘドロの一部、石牟礼道子氏の「苦海浄土」生原稿、チッソ製品、事件を報じた新聞記事、水俣病裁判の判決文、中傷ビラや補償協定書なども。
前日に水俣病資料館を見学し、旅行中に新潟水俣病資料館を訪問したこともあったが、実際にスタッフの説明を伺い、被害者の側から公害事件を捉え、生きた展示の数々を目の当たりにすると、水俣病に対する理解も違ってくる。
多忙の中、我々二人のために丁寧に解説をしてくれたスタッフの方にお礼をいい、相思社の一口会員となって機関紙「ごんずい」をいただき、考証館をあとにした。
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最後に、希望をひとつ。
〜1995年、政治決着を迎えた折に、被害者が至った思いについて〜
被害民はただ打ちひしがれていたばかりではなかったのです。
底知れない辛苦を味わってきた被害者が発したのは、凄惨な被害の訴えや加害者への深い憎悪の念を超越した言葉でした。
「チッソの社員や市民も苦しかったでしょう」
「自分もチッソの中にいたら、同じことをしていたかもしれない」と。
それは、 加害被害の関係を超えて人間同士の信を紡ぎ出そうとするものであり、被害者としての憤りを人間社会のあり方を問うことにまで昇華させようとするものでし た。
水俣の「もやい創り」とはそういうことなのです。
(2004年 「水俣病センター相思社三〇周年事業 趣意書」より抜粋)
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