3月8日 鹿児島市街[加治屋町・維新ふるさと館]→薩摩川内市(42km)


今日も朗らかな晴天。

昨日に引き続き、鹿児島市街地散策へと出かけることに。

本日のテーマは、「明治維新」

まずは、加治屋町にある「西郷隆盛の生家跡」へ。



この周辺からは、大久保利通、村田新八、西郷従道、大山巌、東郷平八郎など、明治維新や明治政府の屋台骨を支えた薩摩の偉人たちを多く輩出している。

というのも、薩摩藩の教育システムである「郷中教育」により、郷中(同じ地域)の青少年たちが、一緒に学問や武芸を学び、切磋琢磨したからである。




続いて「維新ふるさと館」を見学。



この施設は、鹿児島の偉人たちの業績を、パネルやジオラマ、映像で説明するもので、西郷らが実際に着用した衣服や直筆の手紙など、貴重な展示品もある。

子供達が楽しめるようなアトラクションあり、映画館並みの大きなシアターありで、かなり大掛かりな施設だ。

入場料は310円。低価格ながら、かなりの力の入れよう。

鹿児島というと、まずは「明治維新」となってしまうことがよく分かる。

郷土の偉人を顕彰し愛郷心を養うのは何処でもあることだが、それが他よりもスケールアップしており、日本における唯一無二の激動の時代を生きた人々を前に、新鮮な驚きこそ無いものの、やはり圧倒される。

「維新ふるさと館」は、西郷隆盛を展示の中心の一つに据えており、昨日「西郷隆盛洞窟」を見ていたこともあるので、奄美に続いてまたかという感じだが、西郷隆盛についてちょっと触れておきたい。


言うまでもなく、西郷はスケールの大きな、人間的魅力に富んだ偉人として、日本人に広く親しまれている。

古くは、日清戦争が始まる1894年出版の内村鑑三『代表的日本人』において、上杉鷹山・中江藤樹・二宮尊徳・日蓮と並んで西郷が取り上げられている。

現代のビジネスパーソンは、西郷の「敬天愛人」や「慎独」の言葉を取り上げ、彼の無私の精神こそが、会社という組織において、目先の出世や利益にとらわれない本当の成果を残すための美徳だとする。

またある人は、彼の盟友であり、最後は政敵となった大久保利通と比較し、大久保を「知」の人、西郷を「情」の人とする。その言葉には、情けに殉じた西郷を、日本人のメンタリティーに合致するものとして、より高く評価するニュアンスがある。

鹿児島に来れば、至るところに西郷さんに絡めた土産物が並ぶし、テレビドラマで彼を取り上げた例は枚挙にいとまがない。


一方、西郷が主張した征韓論の真意など、自らを語ることが少なかった彼は、その死の直後から、一部では「歴史的評価が難しい人物」とされてきた。

日本史の教科書で、「西郷は征韓論争で敗北し下野した」と習った覚えがある。

倒幕の中心人物で、大久保利通と並んで薩長土肥の最大勢力・薩摩の重鎮だった西郷が、「単なる一つの外交問題」で下野するのは不自然だが、彼の真意は何だったのだろうか。

「旧士族の不満を抑えるため、そのはけ口を朝鮮への派兵に求めた」という説明もあったが、いかにも乱暴な説明というか、その後の西南戦争で死んでしまった西郷が、どのような国家戦略を描いていたのかが分からず、行き当たりばったりの、死に場所を求めていたような印象すら与えられる。

モヤモヤしながらもそれ以上考えることはなかったが、今日「維新ふるさと館」で目にした『西郷隆盛〜西南戦争への道』(猪飼隆明)を購入し読んでみて、疑問が多少なりとも氷解する部分があった(なお、倒幕運動から西南戦争までの西郷の動きは、文末に付記した)。


征韓論争とその後の西郷が何を考えていたのかについては諸説あるが、著者は以下の点を指摘している。

まず、西郷の行動を規定したものは、何よりも旧島津藩主・斉彬への忠誠と敬慕の念だった。明治維新後、国家の中枢で藩を統制・解体する立場に自らを置く西郷にとっては、「藩の権力より上位に位置する天皇」の忠臣たることが、斉彬への忠誠を上位から包み込むものとして、彼には矛盾なく受け入れられた。彼が斉彬を思慕すればするほど、彼は天皇主義者にならざるを得なかった。

一方、大久保利通は、天皇を権威の源泉、支配体制の維持に必要なものとだけ理解した。短期間に国家統一と富国強兵を成し遂げるべき緊急時には、「有司」と呼ばれた太政官など一握りの官僚だけに権力を集中させるべきとした大久保は、天皇の裁可を得られる位置の掌握を実現したが、それは同時に権力の腐敗を生み、天皇主義者であった西郷の目には許しがたいものに映った。

征韓論争において、西郷を「朝鮮問題を平和裡に解決しようとした平和主義者」とみなす見解を著者は否定する。そして、西郷は外交使節として殺され「人柱」になることにより、日本の朝鮮派兵への大義名分を作り出し、武力行使の過程で天皇への民心の収斂と天皇親政(専制)への道を開こうとした、と主張する。そして、彼にとっての天皇専制は、国会開設と民意の反映の考え方と必ずしも矛盾するものではなく、天皇による一種の「仁政主義」、「徳政主義」を想定していたのではないか、とする。

死後の西郷は、1889年の大日本帝国憲法の発令に際し、「逆賊」から「忠臣」へと名誉回復された。そして、憲法の発令により、大久保らが苦心した「有司専制」は消滅し、著者の言葉を借りれば、官僚たちは「法律と規則に従う忠実なる天皇制官僚へと、自己を修正し終わる」のだ。図らずも西郷の死後、「西郷が漠然と描いていたであろう国家に酷似した体制が、明治憲法体制として現出した」のである。西郷の名誉回復は、そのような背景があったのだと著者は指摘する。

最後に、目的のためには自分を捨てることができる「無私の人」であった西郷は、敵にとってはこの上なく恐ろしい存在であり、味方にとっては命を投げ出すことのできる存在だった。西南戦争は彼にとって、大義名分を充分に明らかにすることができなかった不本意な戦争だったかも知れないが、彼の死に方は、薩摩第一主義者で「情の人」であった西郷らしい最期だった、とは言えるだろう。

(付記:倒幕運動から西南戦争までの西郷の動き)

薩摩藩が幕府と手を結んだ長州征討から一転する薩長同盟、その後の京都・江戸での様々な倒幕目的の謀略、勝海舟との江戸城無血開城の会談。2度の遠島から復権した西郷は、常に幕末の転換期の中心にいた。


明治政府の誕生後、西郷は一旦、中央の動きから身を引く。彼は中央政府には出仕せず、島津藩主の命を受け、下級武士中心の藩政改革に取り組んだ。


1971年、中央からの度重なる要請に応え、参議兼陸軍元帥となる。その年に岩倉使節団派遣を受け、自らが中心となり留守政府を預かることとなる。これは、当初1年の予定が、結局1年9ヶ月に及ぶ長いものになった。


西郷は、当初は積極的に中央政府に関与しようとしたわけではなかったが、岩倉視察団派遣の間、廃藩置県や学制の制定、徴兵令発布などの重要政策が次々に施行され、彼は留守政府を守る重責を果たした。

そして、征韓論争が起こる。新政府発足後、朝鮮との国交樹立は日本政府の懸案事項だったが、日本政府の言い分としては「朝鮮の非礼」により、外交交渉が進捗しなかった。かつて、江戸幕府は対馬藩を窓口に朝鮮と外交を行なっていたが、今回の新政府のやり方が強引であり、朝鮮の反発を買ったという事実もある。


西郷は自分を交渉使節として朝鮮に派遣するよう三条実美らに強く要望し、閣議で採決され、あとは天皇への上奏を待つだけとなっていた。しかし、帰国した大久保利通・岩倉具視らの反対を受け、正式決定した「西郷派遣」は取り下げられる。西郷は下野し、最後まで江戸の地を踏むことはなかった。


鹿児島に戻った西郷は私学校を設立し、旧士族の教育にあたる。鹿児島が半ば独立王国の様相を呈してきたため、新政府に睨まれることとなる。その後の新政府からの密偵の発覚や武器弾薬の移送などに起因した私学校生徒の暴発を西郷は止められず、「日本最後の内戦」西南戦争に発展し、敗走、自刃する。享年49歳。

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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