小雨がパラつく、どんよりとした曇り空。
今日は、特攻隊の出撃地として有名な「知覧」を訪れるため、隣の南九州市まで車を走らせる。
途中、小泉元首相の父親の出生地とされる加世田市金峰町(旧・田布施村)を通る。
目的地の「知覧特攻平和会館」駐車場に着いた時には、外は土砂降り。
この雨の中、びしょ濡れになって会館へと向かう勇気はない。
二人とも寝不足だったこともあり、少し仮眠をとり、雨脚が少し落ち着いてから記念館へと向かうことにする。
この辺りは、現在は名産・知覧茶の茶畑が広がるのどかな風景だが、かつては知覧飛行場があり、多くの若者たちが激戦地・沖縄へ向け、この地から飛び立って行ったという。
「知覧特攻平和会館」は、第二次大戦末期に大日本帝国陸軍により編成された、航空特攻隊の遺影や遺品などを展示する施設である。
平日にも関わらず、建物の中は大勢の見学客で賑わっている。
性別も年代もバラバラで、団体客もいれば、個人もあり、関心の高さが伺える。
最初に、「特攻隊」という言葉の周辺を整理。
特攻隊と聞くと、戦闘機で敵艦に突っ込んでいく光景をまず想像する。
しかし、特攻隊にはこうした「航空特攻隊」のほかに、「潜水艇」及び「震洋艇」と呼ばれたモーターボートによる特攻隊もあった。
ただ、戦死者数では航空特攻隊がその多くを占めたこともあり、特攻隊イコール戦闘機というイメージがどうしても強くなる。
次に航空隊の組織について。
「空軍」として組織が独立していなかった日本軍において、航空隊は「海軍」に属するものだと今まで思っていた。
しかし、実際には沖縄戦開始以降に設立された陸軍所属の航空隊があり、海軍とは別に独立した任務を帯び、戦闘に参加していた。
例えば、陸軍は敵陣地や軍需工場の爆撃を主目的とし、海軍は海上に出て敵艦を攻撃する、などの役割の違いである。
また、特攻隊というと「神風特攻隊」が特に有名だが、これは海軍が編成した航空隊である。
そして、ここ知覧の飛行場から出撃したのは陸軍の航空隊であり、この記念館で遺影や遺品が展示されているのは、「陸軍航空隊による特攻戦死者」である。
もう一点、特攻で用いられた飛行場について。
航空特攻隊は知覧以外にも、日本各地の飛行場から出撃しており、そこには当時日本領だった台湾も含まれる。
ただ、陸軍航空隊の戦死者数に限っては、ここ知覧飛行場からが439人と最も多く、陸軍全体1036名の4割以上を占めていた。
そして、この知覧特攻平和会館に展示された遺影や遺品(主に遺書と手紙)は、知覧からの出撃者を中心とする、陸軍航空隊の特攻戦死者全てを含んでいる。
このあたりのことは、実は会館の見学後にネットで調べて、はじめて頭が整理された次第。
(「知覧特攻平和会館」ホームページより)
館内の壁面は、特攻戦死者の遺影でびっしりと埋め尽くされている。
出撃は前日に知らされたという。
三角兵舎と呼ばれる、空からの攻撃を避けるよう隠蔽された粗末な建物に寝起きし、出撃の前日、彼らはそこで別れの盃を酌み交わし、遺書(母に宛てたものが多かった)をしたためた。
最年少は、若干17歳の少年であった。
展示はこのほかにも、海中から引き上げられたボロボロに錆びた特攻機や、勲章や軍服、日本刀などがあったが、一隻の「震洋艇」が展示されていたのが目を引いた。
作家・島尾敏雄は第二次大戦末期、第18震洋特攻隊隊長として、奄美諸島の加計呂麻島で出撃命令を待ち、そのまま終戦を迎えるという極限の体験をしている。
彼は特攻を志願したのち、横須賀の海軍水雷学校で、自らが乗るはずの「震洋艇」を初めて目にした時の心境を、1989年発表の小説『魚雷艇学生』で以下のように記している。
「しかし私が見たのは、うす汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボートでしかなかった。(中略)私は何だかひどく落胆した。これが私の終の命を托する兵器なのか。思わず何かに裏切られた思いになったのがおかしかった。自分の命が甚だ安く見積もられたと思った。というより、果たしてこのように貧相な兵器で敵艦を攻撃し相応の効果を挙げ得られるだろうかという疑惑に覆われた。」
先日、加計呂麻島を訪れ、初めて震洋特攻隊の存在を知った。
早速、島尾敏雄の小説『魚雷艇学生』を購入し読んでみると、極限の状態に置かれた頭脳明晰な若者(彼は九州大学を卒業していた)が、大日本帝国海軍という組織と、そこで改造される自らの心や身体の変化を、いかに冷静に観察しているかに驚かされた。
そして今日、図らずも、この記念館で震洋艇の実物に巡り合ったのだ。
最後に、「特攻という特殊な方式による戦死者数はどのくらいか」という問題については諸説あるらしく、一つの考え方として約6000人という数字が挙げられている。
つまり、この記念館に遺品が収められた戦死者とは別に、それを大きくうわ回る若者達が、海軍の航空隊、あるいは船舶による特攻で戦死しているわけだ。
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敷地内には、彼らが出撃前の最後の時間を過ごした三角兵舎が再現されている。
薄暗い裸電球が灯る下、10人も寝れば一杯になるだろうか、板張りの高床に質素な寝具が置かれていた。
知覧特攻平和会館の隣には「知覧ミュージアム」が併設されているので、ついでに見学。
ここは、南九州市の「歴史民俗資料館」であり、知覧を中心としたこの地域の歴史や風俗、漁業や農業の様子などについて知ることができる。
その中で印象に残ったのは、「知覧のかくれ念仏」についての展示だ。
江戸時代、薩摩藩は一向宗の信仰を厳しく禁じており、見つかれば激しい拷問を受け、改宗が迫られた。それでも信仰を守ろうとした民衆は、山の中の洞窟に集まり、密かに念仏を唱えた。
その様子を子供達に見つかると思わず口外してしまう恐れがあるため、「あの洞窟には泥棒が住んでいるから近寄ってはいけないよ」と常日頃から戒めていた。
近くに小川のせせらぎが流れる洞窟を選び、その音で念仏の声が聞こえないようにしたという。
そして、家々の柱には秘密の穴が彫られ、そこに小さな仏像が隠されていた。
また、時には小舟で海上に漕ぎ出し、船上で念仏を唱えることもあったという。
封建時代の厳しい生活を、信仰によって支えようとした民衆の姿が偲ばれる展示であった。
ミュージアムを出るころには、雨は止み、いつのまにか青空が広がっていた。
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