駐車場は、夕方6時から翌朝8時までの夜間最大料金300円という事だったので、8時前にそそくさと退出。
仙台城の三の丸跡にある仙台市博物館へと向かう。
ここは宮城県を代表する博物館として、仙台市のみならず宮城県全体の歴史に関する文物も展示しており、「むかしの仙台」「伊達政宗、仙台へ」「城」「藩」「町」「近代都市への歩み」の6つのゾーンで構成されている。
まずは、「むかしの仙台」から。
例によって様々な形の土偶があるが、手や足、特に足が破損しているものが多い。ある研究者によると、土偶は必ずどこかが破損されて出土しており、何かの目的で破損されるような使われ方をしていたのではないか、との説がある。
次に、「伊達政宗、仙台へ」
展示品は文化財保護のため随時変わるらしく、例えば今回は狩野派による襖絵(萩に鹿図屏風)があったが、
先月は伊達政宗所用の鎧兜が展示されており、どんな展示に当たるかは運次第ということのようだ。
屏風に書かれた和歌等は、政宗直筆とされる。現在の形は屏風だが、元は襖であったという。
そして、「城」「藩」「町」。
仙台の城下は、武士の居住地を「丁」、町人、商人、足軽の居住地を「町」と呼び分け、武士の人口は町人を上回っていたという。
そして、ご存知、ご法度。
⑤の「密告の奨励」とは、いささか物騒な感じ。町民の暮らしも縛りがキツかったようで。
そして、時代は幕末へ。
仙台ゆかりの林子平が、欧米列強による植民地支配の現状を知り、沿岸警備の重要性を説いた「海国兵談」。わずか38部の出版となったという原本のうちの一部がここに展示されている。
出版の翌年、林子平は幕府によって版木を没収され、謹慎処分を言い渡された。
林子平が謹慎している様子を描いた木版画。これは、時の老中松平定信が「寛政の改革」で出版、思想統制の強化を示す為に描かせたとされる。
仙台藩は、戊辰戦争で奥羽列藩同盟に参加し新政府軍と戦った。
徳川慶喜は早々と恭順の意を表し蟄居してしまったので、薩長が最も敵対視したのが会津藩だった。
仙台藩は当初、奥州総鎮撫使から会津藩討伐を命じられたが、会津藩との交渉により降伏案をまとめていた(それでも家老3人の切腹と領地削減を条件とした)。
ところが、鎮撫使側は「会津藩主の首と鶴ヶ城開城、さもなくば討伐」と降伏案を受け入れず、はじめから「奥州全体を制圧」することを前提に臨んでいた。
そうした鎮撫使側の思惑を彼らの内部書簡を入手してつかんでいた仙台藩ら奥羽諸藩は、同盟して抵抗し、戦うしかなかったというのが、現在ではある程度、定説のようになっている。
一方、日本史の教科書では、必ずしもそのような背景には言及されず、徳川幕府という旧勢力に最後まで与した
会津藩ら奥州諸藩、という印象しか与えない。東北地方のこうした歴史展示を見ていると、東北人の憤懣やるかたない思いが伝わってくる。
他にも、伊達政宗がメキシコ(当時スペインの植民地)との直接貿易と宣教師の派遣を許可してもらうため、家臣・支倉常長らを海外に派遣した「慶長遣欧使節」に関する展示もあり、かなり充実していた。
同館所蔵の国宝「ローマ市公民権証書」(ローマ市議会が支倉にローマ公民権を与え、貴族に列することを認めた)
「支倉常長像」(国宝)、
「ローマ教皇パウロ五世像」(国宝)
は2013年、ユネスコ記憶遺産に登録されている。
博物館裏の木陰に、中国の作家・魯迅の像がある。
魯迅は仙台で医学を学んでいたが、「今の中国を救うには文学しかない」と医学から文学に転向する。そのきっかけを作ったのが、ここ仙台であったというのは有名な話。
この像は、魯迅の生まれた紹興市から彼の生誕120年を記念して贈られたもの。近くには魯迅の妻、許広平の植樹した黒松もあった。やや元気がないような枝ぶりだったのは残念だった。
魯迅先生の像の近くには、『海国兵談』の著者であり、仙台ゆかりの林子平のレリーフも。
更に一番奥まった所に、両腕と胸から下を戦時中に拠出されてしまったという、痛々しく無残な姿の伊達政宗の銅像があった。胸像といえば聞こえは良いが……。
道の駅がない仙台市内に留まるのは難儀なので、25kmほど南に行った道の駅「村田」まで移動。
夜の駐車場には、さまざまな虫の音色が微かに響き、心地よい眠りにつく。
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