8月25日 潟上市→大仙市大曲→美郷町(128km)

朝、まずまずの天気。道の駅「しょうわ」は、夜中2時過ぎまで人の気配もなく、ポツンと一台建物の前に張り付いているような状況。気持ちの良い道の駅なのに、何故かキャンパーには人気がないらしい。
今日は近隣の大仙市大曲で「第92回全国花火競技大会」が開催されるので、午後から大曲方面に行く予定。

まだ時間があるので、2kmほど北にある「潟上市郷土文化保存伝習館」を見学することに。

ここは別名「石川翁資料館」となっており、地元の篤農家・石川理紀之助に関する展示を行なっている。


篤農家とは「農業の発展や農民の救済に貢献した農民」のこと。石川は「田の二宮尊徳」とも称されるが、彼は1845年の生まれ、二宮は1787年である。

以前、日本各地のNPOの活動を紹介する雑誌「まち・むら」(良い雑誌です)を読んでいたら、秋田県で里山復興に取り組んでいる「草木谷ネットワーク」というNPOの記事が目についた。彼らが指針としている地元の偉人が石川理紀之助(石川翁)だったので、名前は覚えていたのだが、今回、偶然道の駅の近くに資料館があったので足を運んでみることにした。

石川翁は、幕末の秋田の豪農・奈良家に生まれた。元来の読書好きであったが、親からは「百姓に学問はいらない」と言われ、ならば家人が寝ている間にと夜中の2時から早起きし、読書三昧、勉学に励みつつ、家業の農家を手伝うという日々を送っていたという。

青年期には歌人を志し、家出をして江戸に行こうとするが、「江戸に行かなくても良い師匠がいる」と紹介された秋田の女流歌人・後藤逸女に師事。
農村で地に足をつけた生活を実践する後藤の生き方、また先人の篤農家の影響を受けている。

その後、養子に入った石川家で真面目に農業に取り組みながら、次第に農村のリーダーとして頭角を現してくる。

明治初期の農村では、天候悪化や自然災害の影響による凶作時に、多くの農民が米を納めることが出来ず、納税の為に止むを得ず借金を重ねるという状況にあった。その高利貸しにより農民は借金苦に喘ぎ、また農地を借金のカタに取られ離村を余儀なくされることもあった。

その現状を知っていた石川は、施肥方法の改善などによる土壌改良や、食に当てていた米の内、毎日一定数貯蔵するという目標を個々人の農民に立てさせて、飢饉時に備え食糧を備蓄させ、自らも実施する等、農業技術の向上や生活改善を通じて、地域の農民の借金を短期間で完済させた。自らは毎朝2時に起床し、朝の3時には集落の農家を「掛け板を打ち鳴らして」起こしに行き、村人が夜明け前から農作業に専念し、生活を再建するよう働きかけたというエソードが残っている。

その実績は、当時の中央政府にも知れ渡り、国レベルの農政に関わることも打診されたが、彼は地元秋田の農業に貢献したいという思いが強く、誘いを断っている。

45歳の時、「草木谷」と名付けた場所に質素な小屋を建て、自ら小作農となり、貧農としての生活を実践した。こういうところが「聖農」と称される所以であろう。

さらには、農業振興のための組織である町村農会・県農会の組織に尽力し、自ら秋田県農会の初代会長となる。54歳のときには秋田県議会の要請を受け、県内の営農計画策定の基礎となる「適産調」(各地域の戸数・地質・産業などの調査)を、足掛け7年に渡って行うことになる。彼はどこで倒れてもいいように、「顔にかける白布、葬儀料、届出のための戸籍謄本」を常に持ち歩いていたそうだ。

また、農村改善の指導のため日本各地に赴いたが、宮崎県都城市には半年滞在しており、こうした関わりから、都城市で用いられる小学校の教科書には、石川の業績を見開きで紹介するページがある。紹介してくれた資料館の職員によると、以前、都城市が交流のために派遣した都城市立山田中学校の学生の一人は、石川が当時、夜学校で指導した農民の子孫であったという。

幕末や戦国時代はもういい加減にして、大河ドラマでは、こういう人を取りあげた方が意味があるのではと思う。東北人に偉人多し。東北人、恐るべし。

資料館を後にし、秋田市内をちょっと流してから大曲方面へて向かう。資料館の男性から、大曲付近は相当の渋滞になると言われビクビクしていたが、まだ正午過ぎという事もあってか、大仙市に入ってからもスムーズに流れ、大曲駅前まではあっさりと着いた。

ところが、川沿いの花火大会会場の周辺にある駐車場は、無料駐車場は言うまでもなく、有料駐車場もほとんど満車。軽い気持ちで何の準備もせずに訪れた我々は、周囲のキャンプ場さながらのテントの下にテーブル席を設置して、これから宴会始まりますといった、やる気満々な雰囲気にのまれてしまい、あきらめて郊外の道の駅「なかせん」に移動する。

結局、そこでも車が多く、トイレは50人待ちといった様子で落ち着かない感じ。この先の角館には道の駅がなく、そもそもKY夫婦は武家屋敷に興味が薄かったので、この道の駅での停泊はとりやめることにし、一刻も早く、この喧騒から離れようと、横手方面に移動することに。

今晩の食材とお酒を少々買い込んで、大曲の市街地を抜けようとすると、田んぼの脇に車がズラッと並び、外にテーブルセットを出して観賞しようと待っている人たちがいる。 
こんなとこでもOKなのか、と半信半疑で我々も狭い道を入っていき、周囲を真似てキャンピングカーを横付けし、様子を見る。

すると、2kmほど前方で、夕方5時半からの「昼の部」の花火がぽちぽち上がっている。まだ明るいので、この距離では、かろうじて上がっているのが分かる程度。

周囲では宴会が始まり、田んぼに向かって用をたす男性の姿もチラホラ。子供達は当然、道路と公園の区別もつかず、辺りを走り回ってはしゃいでいる。「夜の部」が始まり暗くなると、そんなカオスなワンダーランドから、無事に車を出せるか怪しいので、長居せず、明るいうちに移動することにした。

市街地にあるイオンの巨大駐車場の路肩に、ずらっとシートを広げている人も多い。 


さすが「日本三大全国花火競技大会」だと感心。

美郷町に入り、道の駅「雁の里せんなん」に到着する。

15km程離れたこの道の駅からでも、遥か遠くに花火が望まれた。
「箱庭で花火を上げてます」的な、可愛らしい小さな花火が。ドカーン、ドカーンと音もしっかり聞こえてくる。
ここまでの道中、田んぼの畦道に入って花火鑑賞している人達を多く見かけたけど、カップルならシアタームービーを見ているような感覚で、いいかも。虫に刺されないしね。
夜になり、もう一度、石川翁のおさらいを。

「石川理紀之助翁検定」というものがあり、その中に「石川翁のおしえ」という項目があるということで、頂いた資料の中から抜粋。
●苦しい状況下でも、将来について夢(ビジョン)を持つこと。
●一人で悩まないこと。
   日頃から仲間づくりに努め、協力を得て問題や課題を解決できることもある。
●目標を数字で表し、実現するための行動、進み具合を確認すること。
   (メタ認知、メタメタ認知)
●厳しい状況下であつても、失敗を恐れずチャレンジすること。 
●次世代を担う後継者を育成すること。
 
これは、現代社会にも十分に通じる、人間教育のコアな部分ともいえる。
それを知識として理解し、伝達する事を生業とするのではなく、実践に移すべく努力と精神力、崇高な理想。届かぬものと諦めるのも、あり得ないと斬って捨てるのも容易な事。しかし、日々それを目標に掲げ、歩み始める。今日はダメてでも、また明日、と。そんな日常生活を積み重ねてゆくだけでも、ちょっとずつは石川翁の理想に近づいてゆけるのではないか。そんな事を考えた。

若い頃から読み進めた書物や地元の歌人から学び、その叡智を具現化し、実践に移していった石川翁。聖農と評され、周囲から尊敬を集めた彼の子孫は、前出の「草木谷を守る会」NPO法人の代表に石川紀行さん。彼こそが石川翁から数えて5代目となるお方だそう。
未来を見据えて生きていた石川翁の教えを受け継ぐ人々が暮らす秋田。そして東北。中央の政策だけでは語れない公教育の伝統。地味ながらも着実に前進し進化を遂げている。霞ヶ関だけを見つめていては分からない、希望の光をここに見た気がする。(KY)

キャンピングカーで日本一周

キャンピングカーで日本一周の旅に出ています。夫婦二人、各地の歴史や文化、暮らし方を学びながら旅しています。

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