今朝目覚めたら、車の脇に「ここに車の駐車は御遠慮下さい」の看板が目に入り、慌てて場所を移動。
昨晩は暗くてよく見えなかったが、確かに駐車していた場所は店にぐるりと囲まれた広場のようになつている。他に車中泊の車が数台ある駐車スペースなので安心し、トイレの灯りに導かれるようにして停車場所を決めたわけだが、こんな事もあるわけで。
こちらが本来の指定駐車エリアだったらしい。
早々に出発の準備を整え、秋田県内の日本海側まで移動し、能代市を経由して大潟村へと向かう。近くにある白神山地世界遺産センターは割愛した。
八郎潟の干拓地内に作られた大潟村には、道の駅「おおがた」がある。
敷地内には「大潟村干拓記念館」が併設されているので、道の駅に車を停め、記念館を見学する。
大潟村は、戦後の食糧難を解決すべく、1950年代から70年代にかけて行われた巨大国家プロジェクトの舞台である。この「八郎潟の干拓」によって13,000haの農地が新たに誕生した 。
こちらが開拓前。
開拓後。そして現在。
この規模がどれくらいかというと、日本の平均的農家が1haだとすると、13,000人分の農地にあたる。もちろん、ここでは大規模農業がモデル的に行われてきたので、平均耕作面積は通常の15倍、15haまでになっている。
干潟の干拓事業はオランダ方式。
まずはじめに外枠の土手を築き、その後排水ポンプで水を抜いてゆくというもの。
これにより元々の八郎潟の底が現れ、現在の農地となっている。
干拓地内の海抜は−5mで、この道の駅や記念館のある農地以外のエリアは、さらに盛り土を1m程施し、−4mとなっているという。
「八郎潟の干拓」は、我々の時代の社会科の教科書には必ず載っていた。琵琶湖に次いで日本第二の湖を干拓したので、多くの漁業者は廃業せざるを得ず、補償問題などがその後長く尾を引いた。
皮肉なことに、食糧問題を解決すべく期待された干拓事業は、その後減反政策に直面し、廃業をせざる得なくなったり、畑作への転換を余儀なくされた農業者もおり、自殺者まで出たと聞く。肥沃な土地ではあるものの、元々水はけが悪く、畑作には向かない土地のため、全財産を投げ打って他県から移住してきた農業者にとっては、文字通り生死に関わる問題だったろう。彼らは7倍以上の競争倍率を乗り越えて、ここに移住してきたというのにである。
現在では、大型機械化と大規模区画整理による大規模栽培を行うだけでなく、農業廃棄物を活用した有機ペレット肥料の開発や、減農薬や、合鴨農法などの有機栽培も取り入れながら、競争力のある稲作とメロン栽培などを行なっている。
また、巨大カントリーエレベーター(稲籾貯蔵施設)の建設により、籾殻ごとの低温貯蔵が可能となり、籾摺り・精米から流通までの時間を短縮し、より美味しいお米を消費者に安定供給することが出来るよう努めているという。
ここ大潟村では、農地と居住区は完全に分離されている。
Yは村の中心地をちょっとジョギングしてみたが、一軒家が団地のようにまとまって配置されており、道沿いには綺麗に花が植えられ、一見すると東京郊外の住宅地のようである。おそらく、このエリアの多くの住人は農業者なのだろうが、外観からはよく分からない。総合中心地と呼ばれるこの区域は、役場と消防署、診療所、中学校などがあるのだが、商店街はごく小規模で、買い物はおそらく道の駅と数少ないコンビニか、あとは村外に出たりするのだろう。
大潟村はいわゆる「観光地」ではないが、日本の農業の歴史を知る上では、欠かせない場所であることは間違いない。県庁所在地・秋田市からも遠くないので、日頃「あきたこまち」を食べている方々、ぜひ一度大潟村に足を運んでいただきたい。(KY)
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